ジョージ・タケイ
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母方の祖父母広島県からの移民[1][2][3]。父が親英派であったために、ジョージ6世の名前から「ジョージ」と名づけた[4][5]。母方の叔母は、2017年にノーベル平和賞を受賞した平和活動家のサーロー節子[6]。第100代・第101代内閣総理大臣岸田文雄は遠縁にあたる。

平和な日々を送る一家に転機が訪れたのは1941年日米開戦からである。タケイ一家は1942年大統領令9066号によりアーカンソー州ローワー強制収容所へ強制収容されることになる[7][8]。過酷な日々を送っていた一家は、今度はタケイの父が(当時、当局が徴兵検査の目的を隠して踏み絵的に行っていた)アメリカ政府に対する忠誠心の調査「忠誠登録」(Loyalty Questionnaire) で忠誠を拒否したために、カリフォルニア州テュールレイク強制収容所へ送られた。テュールレイクは反米主義者とみなされた者が多く送られた場所で、一種の隔離収容所であった。1945年8月の終戦後もテュールレイクだけは翌年まで閉鎖されなかった。広島市への原子爆弾投下が行なわれたその日、タケイは抑留キャンプの中におり、希望を失うほどの悲しみに打ちひしがれたという。タケイの母の姉妹とその5歳の子供の遺体は広島市内の運河に浮かんでおり、爆発によってほとんど見分けのつかないほどの火傷を負っていたという。タケイの母の家族は開戦直前、アメリカ国内から広島に向かって帰国していたので母は広島にいる姉妹や親戚の安否を確かめようとヒステリックになったという[9]。タケイ一家は、3年あまりにわたる苦難の生活から解放された後、タケイの生まれ故郷ロサンゼルスへと帰郷する。片道切符と政府から支給された25ドルしかなかった家族は、ロサンゼルスのスラムに住まざるを得なかったが、そこでクリーニング店を始め、その後軌道にのる。

タケイは1956年建築学専攻でカリフォルニア大学バークレー校に入学するが、在学中に俳優の夢を持っていたために1958年カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) に編入、演劇学学士大学院で演劇学修士を取得する。

1960年リチャード・バートン主演の『北海の果て』の出演がきっかけで、俳優としての知名度を高めていくこととなる。1966年、自身の看板作品となる『スタートレック』シリーズにおいて、番組のプロデューサー、ジーン・ロッデンベリーの発案でヒカル・スールーを演じることになり一層知名度を高める。当時のアメリカのテレビ界において、アジア系俳優が主要な役を与えられるのは初めてであった。

政治の世界にも興味を示し、1972年には民主党大統領大会の公式代表になった他、翌1973年にはロサンゼルス市議会の議員に立候補し落選している。1987年には日系人として初めてハリウッドウォーク・オブ・フェームに名前を残している。

1995年、当時大統領を務めていたビル・クリントンから指名を受け、日米文化教育交流会議 (CULCON) の承認を受けたプログラムを運営する、日米友好基金 (JUSFC) の理事を務める。

2004年11月には今までの功績を称えられ、旭日小綬章を授与された。

タケイは俳優業の傍ら日系市民協会 (JACL) に積極的に参加するなど、日系アメリカ人の社会的地位向上にも大きく寄与している。ロサンゼルスにある全米日系人博物館では1984年から現在に至るまでメンバーとして参加。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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