1898年にインド総督兼副王に任じられ、アイルランド貴族爵位ケドルストンのカーゾン男爵に叙された。1899年1月から英領インドに着任。辺境地域の反乱鎮圧間もない時期だったため、北西部の独立志向の強い部族を警戒して北西辺境州(英語版)(NWFP)を新設した。タージ・マハルなどの遺跡保護や大飢饉対策に尽力した。1903年にはエドワード7世のインド皇帝即位式デリー・ダルバール(英語版)を挙行した。ロシアの南下政策を警戒し、軍艦を率いてペルシア湾歴訪を行い、この際にクウェートを保護国と成し、またオマーンを脅迫してマスカット港のフランス貸与計画を中止させた。同じくロシアの南下政策への警戒から1903年から1904年にかけてチベット侵攻を実施した。1905年には軍の独立的地位を求めるインド駐留軍最高司令官初代キッチナー伯爵ホレイショ・キッチナーと対立を深めたが、本国政府から支持を得られなかったため、1905年11月をもってインド総督を辞することとなった(→インド総督兼副王 (1899年-1905年))。
1908年からアイルランド貴族代表議員として貴族院議員となる。1911年には連合王国貴族爵位レイヴンズデール男爵、スカーズデール子爵、ケドルストンのカーゾン伯爵に叙された(→議会に貴族院議員として復帰)。
第一次世界大戦中の1915年5月に与党自由党と野党統一党(保守党)の大連立によるアスキス挙国一致内閣が成立すると王璽尚書として入閣。1916年5月には空軍長官(英語版)に就任。同年12月成立のロイド・ジョージ内閣では貴族院院内総務・枢密院議長として入閣するとともに5人で構成される戦時内閣の一員となった(→第一次世界大戦 (1914年-1918年))。
戦後の1919年にはロイド・ジョージ内閣の外務大臣に就任。それ以前の外相と比べると首相に従属的な外相だった。1919年12月にはソ連とポーランドの国境線を提案し、この線はカーゾン線と呼ばれた。1921年6月には連合王国貴族爵位ケドルストンのカーゾン侯爵に叙された。1922年から1923年にかけてはローザンヌ会議を主催し、トルコの国境線を確定した。フランス軍のルール占領をめぐっては独仏両国の仲介と緊張緩和に努めた。つづくボナー・ロー内閣でも外相に留任した(→外務大臣 (1919年-1924年))。
1923年にボナー・ローが退任した際に後任の首相候補として取りざたされたが、国王ジョージ5世は庶民院議員ボールドウィンに組閣の大命を与えたため、首相にはなれなかった。貴族院議員だったことが忌避されたといわれる(→首相になり損ねる (1923年))。
第一次ボールドウィン内閣には外務大臣、第二次ボールドウィン内閣には枢密院議長として入閣したが、1925年3月20日に死去した。男子がなかったため、甥リチャードに継承されたスカーズデール子爵位(特別継承規定により)とスカーズデール男爵位、および娘アイリーン(英語版)に継承されたレイヴンズデール男爵以外の爵位は廃絶した(→晩年と死去)。