ジョージ・ウォーカー・ブッシュ
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大統領としてブッシュは2001年に1兆3500億ドルの減税プログラム[1]、2002年には全国一斉学力テストを義務化して成績次第で助成金とペナルティを学校に課す「落ちこぼれを作らないための初等中等教育法」(通称:落ちこぼれゼロ法[2])に署名した。

2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件を受け、ブッシュは世界的な「テロとの戦い」を発表した。ブッシュへのアメリカ国民の支持率は同時多発テロ事件後[3]、歴代のアメリカ合衆国大統領の中で最高値である91パーセントにまで達した[4]。後にアフガン侵攻に臨み、ターリバーン政権を打倒してアルカーイダを壊滅させ、ウサーマ・ビン・ラーディンデッド・オア・アライブ[5]として逮捕あるいは殺害することを命じた。2003年3月、ブッシュ・チェイニー政権はイラク武装解除および民主化とイラク国民の独裁者からの解放などを掲げた法案を民主党共和党両党の全会一致で可決してイラク戦争に臨み、独裁者であるサッダーム・フセイン政権の打倒・排除に成功した。イラクについては「イラク国際連合安全保障理事会決議1441に違反しており、戦争がアメリカ合衆国の保護のために必要だった」と発言している[6][7]

イラク戦争の最中、ブッシュは「戦時大統領」と自称して[8]2004年アメリカ合衆国大統領選挙に再選を狙って出馬し、イラク戦争と国内問題の遂行をめぐる論争にもかかわらず、上院議員のジョン・ケリーに大きな差をつけて2004年11月2日に再選された[9][10][11]

しかし再選後のブッシュは益々激しい批判を受けた。ブッシュの国内の支持率は2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ直後の[3]91パーセント(ザ・ギャラップ・オーガナイゼーションがこれまでに記録した中の最高値)[4]から、2008年2月20日には記録に残る中で最も低い現職アメリカ合衆国大統領支持率[12]となる19パーセントにまで低下した。このときブッシュの不支持率は76パーセントまで上昇し、国内ではブッシュ批判が激しさを増した[13]。それは2009年1月20日に後継のバラク・オバマ政権をバトンタッチするその日まで続いた[14]。しかし退任後の好感度は上昇しており、2009年1月の退任時には33%だった好感度が2018年1月には61%にまで上昇した。
父との呼称の違い

アメリカ合衆国では父のジョージ・H・W・ブッシュと区別するため、第43代アメリカ合衆国大統領であることから「43(フォーティスリー)」や、ミドルネームを表す「W」、またはテキサス州周辺地域での「W」の発音から「Dubbya(ダビャ)」と呼ばれることもある。また、歴史的には同姓同名で血縁関係のある人物を区別する際、年長者を「大(major)○○」、年少者を「小(minor)○○」と呼ぶので、父を「大ブッシュ」と呼ぶのに対して、息子の方を「小ブッシュ」と呼ぶこともある。父を「ブッシュ・シニア」と呼び、息子の方を「ブッシュ・ジュニア」と呼ぶ例もある。俗には、父のほうを「パパ・ブッシュ」と呼ぶ人もいる。上述のように、弟であるジェブ・ブッシュの長男でもある、W・ブッシュの甥もジョージ・ブッシュだが、ミドルネームがPとなっている(ジョージ・P・ブッシュ)。
来歴
若年期と軍歴ジョージ・W・ブッシュが1歳のころ。両親と。ジョージ・W・ブッシュ(後列の左から2番目)と家族。空軍州兵時代のジョージ・W・ブッシュ

1946年7月6日、コネチカット州ニューヘイブンで、ジョージ・H・W・ブッシュバーバラ・ブッシュの長男として生まれた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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