アメリカ合衆国50州の中では陸地面積では第24位、人口では第8位である。2007年から2008年の人口増加率では州内14郡が国内100傑に入っており、テキサス州に次いで多い数だった[3]。「モモの州」や「南部の帝国州」と呼ばれる[2]。
ジョージア州の南はフロリダ州、東は大西洋とサウスカロライナ州、北はノースカロライナ州とテネシー州、西はアラバマ州に接している。北部にはアパラチア山脈に属するブルーリッジ山脈がある。中央部のピードモント台地は丘陵部から滝線まで広がっており、滝線から川が流れ落ちて南部の大陸性海岸平原に流れ込んでいる。ミシシッピ川より東では最も陸地面積が広い州だが、水域を含む総面積では第4位である(ミシガン州、フロリダ州、ウィスコンシン州に次ぐ)[4]。
家庭で話される言語(ジョージア州) 2010
英語 87.35%
スペイン語 7.42%
人種構成(ジョージア州) 2010 ジョージア植民地の設立勅許をジェームス・オグルソープに与えたイギリス国王ジョージ2世に由来する[5]。南コーカサスにあり(ロシア語名の「グルジア」としても知られる)ジョージア国とは地名の由来(ジョージアの国名を参照)はもとより歴史的にも何の関係も持たないが、英語名はどちらも"Georgia"のため区別が必要な場合は州の方を"State of Georgia"(ジョージア州)、国家の方を"Country of Georgia"(ジョージア国)と呼び分ける慣例がある[6][7]。また、ビートルズの楽曲「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」では、地理的には無関係にもかかわらず英語では同一名称となる2つの地名に引っ掛けたジョークが歌詞に織り込まれていることで知られる。 州都のアトランタとジョージア国の首都であるトビリシは、1988年に姉妹都市関係を締結している[8]。また、1996年に開催された1996年アトランタオリンピックではジョージア国選手団が開会式の入場行進において特に大きな歓声で迎えられたエピソードがよく知られている[9]。 ヨーロッパ人が発見し、入ってくる以前のジョージアは、マウンドを建設する文化を持つ先住民が住んでいた。イギリスが植民する以前はチェロキー族やクリーク族などの農耕民インディアン部族が居住していた。18世紀前半、サウスカロライナのイギリス人とフロリダのスペイン人がにらみ合うなかで、ジェームス・オグルソープが率いた最初の英国移民団が1733年2月12日(旧暦1732年2月1日)にサバンナに到着した。州ではこの日を「ジョージアの日」と名付けて州の祝日としている。この植民地は当時のイギリス国王ジョージ2世が発行した勅許の下に、「アメリカにおけるジョージア植民地設立のための信託」が管理した。この信託はオグルソープ計画と呼ばれた念入りな入植計画を実行し、自作農の農業社会を目指し、奴隷制度を禁じていた。1742年、ジェンキンスの耳の戦争の時に、スペインの侵略を受けた。1752年、植民地を支援していた助成金の更新に植民地政府が失敗した後、信託は支配権をイギリス王室に戻した。ジョージアは王室領となり、総督は国王から指名された[10]。ケネソーマウンテンの戦い、1864年6月27日 ジョージア植民地は1776年にアメリカ独立宣言に署名し、アメリカ独立戦争でイギリス支配に反抗した13植民地の1つとなった。戦後アメリカ合衆国憲法を1788年1月2日に批准し、合衆国への加盟順位としては4番目の州になった。 1829年、北ジョージア山地で金が発見されてジョージア・ゴールドラッシュが起こり、連邦政府はダロネガに貨幣鋳造所を設立して1861年まで運営が続けられた。その後白人開拓者が多く流入し、チェロキー族から土地を取り上げるよう連邦政府に迫った。1830年、アンドリュー・ジャクソン大統領がインディアン移住法に署名して法制化し、東部にいた多くのインディアンを現在のオクラホマ州にあった居留地に移住させた。これにはジョージアにいた全ての部族が含まれていた。「ウースター対ジョージア州事件」でアメリカ合衆国最高裁判所が、インディアンの領域を調整してはならないと裁定していたにも拘わらず、ジャクソン大統領とジョージア州はこの裁定を無視した。1838年、ジャクソンの後継者マーティン・ヴァン・ビューレン大統領が連邦軍を派遣してチェロキー族を集め、ミシシッピ川の西に移動させた。これは「涙の道」と呼ばれ、途中で4,000人以上のチェロキー族が死んだ。 参照:ジョージア州の郡一覧、ジョージア州の地理 ジョージア州の北部はアパラチア山系のブルーリッジ山脈で占められ、南部は大平原となっている。
白人 55.9%
黒人 30.5%
ヒスパニック 8.8%
アジア系 3.2%
インディアン 0.3%
混血 2.1%
州名の由来
歴史詳細は「ジョージア州の歴史」を参照
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