1987年7月28日、首相に任命される。ゴリーア内閣はDC、イタリア社会党、イタリア共和党、イタリア民主社会党、自由党の5党連立で組閣された。44歳での首相就任は、イタリアが共和制に移行してからの最年少での就任であった。
1987年、チェルノブイリ原子力発電所事故を受けて、原発建設における政府権限の制限を問う国民投票を実施。結果、原発関係の現行法の廃止に圧倒的多数の票が集まり、ゴリーアは原発建設を当分の間凍結すると発表した[2]。
しかし、連立与党の足並みの乱れから、1988年4月にゴリーア内閣は総辞職する[3]。
その後、1989年に欧州議会議員に選出される。1991年ジュリオ・アンドレオッティ内閣の農林政策大臣に就任し、ジュリアーノ・アマート内閣では財務大臣に就いた。しかし、1993年に収賄容疑に問われ、1994年5月21日に肺癌で急逝した[4]。
脚注^ ⇒8. ルーブル合意-バブルと国際政治:日銀を追い込んだ政治的背景 研究ノート-京都学園大学 経済学部 宮川重義
^ ⇒イタリア/原子力政策の選択に関する国民投票(87年) 国民投票/住民投票 情報室
^ 第4節西欧 昭和63年版外交青書
^ ⇒Giovanni Giuseppe Goria Britannica.com
先代
アミントレ・ファンファーニ 首相(閣僚評議会議長)
第45代: 1987年 - 1988年次代
チリアーコ・デ・ミータ
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