ジョン万次郎
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この項目では、幕末・明治期の人物について説明しています。「ジョン万次郎」という名の大衆割烹チェーンを展開する外食企業については「大庄」をご覧ください。
中浜万次郎/1880年(明治13年)頃の写真。

ジョン万次郎(ジョン まんじろう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:ジョン萬次󠄁カ、英語:John Manjir?、1827年1月27日文政10年1月1日〉 - 1898年明治31年〉11月12日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての日本旗本翻訳家教育家である。アメリカ合衆国を訪れた最初の日本人の一人であり[1]日米和親条約の締結に尽力した。通訳教授などでも活躍した。

アメリカ人からはジョン・マン(英語:John Mung)という愛称でも呼ばれた。帰国後は本名として中浜 万次郎(なかはま まんじろう、旧字体:中濱 萬次󠄁カ)を名乗った。なお、「ジョン万次郎」という呼称は、1938年(昭和13年)に第6回直木賞を受賞した『ジョン万次郎漂流記』(井伏鱒二)で用いられたことによって広まったもので、それ以前には使用されていない。
生涯
生い立ち萬次郎と仲間達の群像/ジョン万次郎資料館がある施設「海の駅あしずり」(土佐清水市養老303)の駐車場に建立されている記念碑。1996年(平成8年)3月28日建立。怖ろしい波濤を背にしつつ生き延びようとする遭難中の万次郎少年(右端、像の先頭)と4名の漁師仲間を主題とした群像で、万次郎の顕彰と、未知の世界に踏み込む若者の可能性をテーマとしている。高知の銅像作家・濱田浩造の作。「萬次郎少年像」、漁師仲間の群像、波濤の3部構成になっており、波濤は鉄筋コンクリート構造、人物は銅像

万次郎は、文政10年1月1日新暦換算:1827年1月27日)、土佐国幡多郡中ノ浜村(なかのはまむら)[注釈 1]幕藩体制下の土佐高知藩知行中ノ浜村。現在の高知県土佐清水市中浜〈なかのはま〉)[2]で半農半漁で暮らす貧しい漁師の家の次男として生まれた[3]。父は悦介(えつすけ)、母は汐(しお)という[3]

万次郎が9歳のとき父が亡くなり[3]、また、母と兄が病弱であったため、幼い頃から働いて家族を養った。寺子屋に通う余裕がなかったため、読み書きもほとんどできなかった。10歳の頃、中浜浦老役の今津太平宅に下働きに出た[3]。重労働から脱走し、漁師になることを強く希望したため、母親の計らいで宇佐の筆之丞の元で漁師として働く事になったという[4]
漂流

天保12年1月5日1841年1月27日)早朝の宇佐浦(現・土佐市宇佐町[5]、14歳になっていた万次郎は、足摺岬沖での漁に出航する漁船に炊係(炊事と雑事を行う係)として乗り込んだ[3]。仲間の構成は、船頭の筆之丞(38歳。のちにハワイで「伝蔵」と改名)を筆頭に、筆之丞の弟で漁撈係の重助(25歳)、同じく筆之丞の弟で係を務める五右衛門(16歳)と、もうひとりの櫓係の寅右衛門(26歳)、そして炊係の万次郎(14歳)であった[5]

ところが、万次郎達は足摺岬の南東15キロメートルほどの沖合で操業中、突然の強風に船ごと吹き流され、航行不能となって難破してしまう[5]。5日半(資料によっては10日間[3])を漂流した後、伊豆諸島にある無人島の一つである鳥島に漂着し[3]、この島でわずかな溜水と海藻海鳥を口にしながら143日間を生き延びた[3]。同年5月9日(1841年6月27日[5]、万次郎達は、船長ウィリアム・ホイットフィールド率いるアメリカ合衆国捕鯨船ジョン・ハウランド号が食料として海亀を確保しようと島に立ち寄った際、乗組員によって発見され、救助された[3]

しかし、その頃の日本は鎖国していたため、この時点で故郷へ生還する術はなく、帰国の途に就いた捕鯨船に同乗したままアメリカへ向かわざるを得なかった。1841年11月20日、ハワイホノルルに寄港した折、救助された5名のうち万次郎を除く4名は、宣教師で、ハワイ王国の顧問であったジェリット・ジュット(英語版)の計らいで当地で下船している[3]。寅右衛門はそのまま移住し、重助は5年後に病死、筆之丞(伝蔵)と五右衛門はのちに帰国を果たしている[5]
渡米

一方、ただひとり万次郎は捕鯨船員となって船に乗り続け、アメリカ本土を目指すことになった[3]。これは、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られたためでもあるが、何より本人が希望した処遇であった。航海中の万次郎は、生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚いている。また、航海中、アメリカ人の乗組員からは、船名にちなんで「ジョン・マン (John Mung)」の愛称で呼ばれた。

1843年5月7日、ジョン・ハウランド号は捕鯨航海を終え、マサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港した[3]。当時この地は同国における捕鯨の一大拠点であった。この航海でグアムギルバート諸島モーレア島ホーン岬などを経由している。アメリカ本土に渡った万次郎は、ニューベッドフォードの隣町で船長のホイットフィールドの故郷であるフェアヘーブン(英語版)で、エバニーザー・エーキン宅にしばらく預けられた後[6][7]、船長の養子のように一緒に暮らすことになる。

1843年(天保14年)にはオックスフォード・スクールでジェームズ・アレンから小学生に混じり英語を学んだ。船長が農場のスコンチカットネックに移った後、しばらく船長の叔母アメリアと住んでいたが、後に万次郎も移った。ここでスコンチカットネック・スクールに通い、1844年弘化元年)にはフェアヘーブンのバートレット・アカデミーで英語数学測量航海術造船技術などを学ぶ。


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