しかし、その頃の日本は鎖国していたため、この時点で故郷へ生還する術はなく、帰国の途に就いた捕鯨船に同乗したままアメリカへ向かわざるを得なかった。1841年11月20日、ハワイのホノルルに寄港した折、救助された5名のうち万次郎を除く4名は、宣教師で、ハワイ王国の顧問であったジェリット・ジュット(英語版)の計らいで当地で下船している[3]。寅右衛門はそのまま移住し、重助は5年後に病死、筆之丞(伝蔵)と五右衛門はのちに帰国を果たしている[5]。 一方、ただひとり万次郎は捕鯨船員となって船に乗り続け、アメリカ本土を目指すことになった[3]。これは、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られたためでもあるが、何より本人が希望した処遇であった。航海中の万次郎は、生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚いている。また、航海中、アメリカ人の乗組員からは、船名にちなんで「ジョン・マン (John Mung)」の愛称で呼ばれた。 1843年5月7日、ジョン・ハウランド号は捕鯨航海を終え、マサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港した[3]。当時この地は同国における捕鯨の一大拠点であった。この航海でグアム、ギルバート諸島、モーレア島、ホーン岬などを経由している。アメリカ本土に渡った万次郎は、ニューベッドフォードの隣町で船長のホイットフィールドの故郷であるフェアヘーブン
渡米
1843年(天保14年)にはオックスフォード・スクールでジェームズ・アレンから小学生に混じり英語を学んだ。船長が農場のスコンチカットネックに移った後、しばらく船長の叔母アメリアと住んでいたが、後に万次郎も移った。ここでスコンチカットネック・スクールに通い、1844年(弘化元年)にはフェアヘーブンのバートレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。彼は寝る間を惜しんで熱心に勉強し、首席となった。この年、船長はウィリアム・アンド・エライザ号で捕鯨に出た。民主主義や男女平等[8]など、日本人にとって新鮮な概念に触れる一方で、人種差別も経験した。
捕鯨生活と帰国万次郎らが上陸した琉球の大度海岸(現在の沖縄県糸満市)
学校を卒業後は桶屋で働くなどしているが、ジョン・ハウランド号の船員だったアイラ・デービスが船長の捕鯨船フランクリン号にスチュワードとして乗る道を選ぶ。1846年5月16日にニューベッドフォードを出港[9]。1846年(弘化3年)から数年間は近代捕鯨の捕鯨船員として生活していた。このとき、大西洋とインド洋を経由してホノルルに寄港しており、別れた漂流民と再会している。また、琉球の小島に上陸しているが、帰国は果たせなかった。
この航海でボストン、アゾレス諸島、カーボベルデ、喜望峰、アムステルダム島、ティモール島、スンダ海峡、ニューアイルランド島、ソロモン諸島、グアム、マニラ、父島、ホノルル、モーリシャスなどに行く。1849年9月、再びニューベッドフォードに戻り船長ウィリアム・ホイットフィールドと再会した後、帰国の資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへスティグリッツ号で水夫として渡り、サクラメント川を蒸気船で遡上し、鉄道で山へ向かった。数か月間、金鉱にて金を採掘する職に就く。
そこで得た資金を持ってホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と再会する。1850年12月17日、知己であった宣教師で新聞を発行していたサミュエル・C・デイモン(英語版)の協力もあり、上海行きの商船サラ・ボイド号に伝蔵と五右衛門と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せて日本へ向け出航した。
嘉永4年(1851年)、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、翁長で牧志朝忠から英語で取り調べを受けたり、地元住民と交流した後に薩摩本土に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。薩摩藩では中浜一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった藩主・島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化などについて質問した。斉彬の命により、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示した後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造した。斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。
薩摩藩での取調べの後、万次郎らは長崎に送られ、江戸幕府の長崎奉行所などで長期間尋問を受ける。長崎奉行所で踏み絵によりキリシタンでないことを証明させられたが、慣例として残っているのみで、描かれた絵はほぼ解読不能に等しく、何かよくわからないまま踏んだという。加えて、外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、土佐に向った。高知城下において吉田東洋らにより藩の取り調べを受け、その際に中浜を同居させて聞き取りに当たった河田小龍は万次郎の話を記録し、後に『漂巽紀略』(ひょうそんきりゃく)を記した。約2か月後、帰郷が許され、帰国から約1年半後の嘉永5年(1852年)、漂流から11年目にして故郷に帰り、母と再会することができた。
帰国後の活躍中浜万次郎の航海(1850年)。
帰郷後すぐに、万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。この際、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えている。
嘉永6年(1853年)7月8日にペリーが江戸に来航し、7月17日に江戸を後にしたが、来春の黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、7月25日に万次郎は幕府に召聘されて江戸へ行き(8月30日着)、直参の旗本の身分を与えられた。その際、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられた。万次郎は江川英龍の配下となり、江川は長崎で没収された万次郎の持ち物を返還させた。勘定奉行川路聖謨からアメリカの情報を聞かれ、糾問書にまとめられている。1856年軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に、英会話書『英米対話捷径』の執筆、『ボーディッチ航海術書(英語版)』の翻訳、講演、通訳、英語の教授、船の買付など精力的に働く。この頃、大鳥圭介、箕作麟祥などが万次郎から英語を学んでいる。
安政元年(1854年)、幕府剣道指南・団野源之進の娘・鉄と結婚。
藩校「教授館」の教授に任命されるが、役職を離れた。理由の1つには、中浜がアメリカ人と交友することをいぶかしがる者が多かったことも挙げられる。また当時、英語をまともに話せるのは中浜万次郎1人だったため、マシュー・ペリーとの交渉の通訳に適任とされたが、(オランダ語を介しての)通訳の立場を失うことを恐れた老中がスパイ疑惑を持ち出し、結局はペリーの通訳[注釈 2]の役目からは外された。実際には日米和親条約の平和的締結に向け、陰ながら助言や進言をし尽力した。
万次郎は幕府が建造した西洋式帆船の君沢形を、西洋式の航海実習も兼ねて捕鯨に使用することを提案し、中浜万次郎が指揮する「君沢形一番」(同型艦は10隻)は安政6年3月(1859年4月)に品川沖を出港し小笠原諸島へと向かったが、暴風雨により船は損傷し、航海は中止となった。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の1人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡る。