ジョン・F・ケネディ
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そして4月17日にピッグス湾に亡命キューバ人部隊1,400人が上陸したが、この時すでにキューバ軍は20万人の態勢で迎撃し事前爆撃でも損耗がなかったキューバ空軍の空からの攻撃で海岸に釘づけにされ、しかも沖合に待機した補給船が空軍機に撃沈されて弾薬不足をきたし[171][注釈 52]、作戦終盤に反カストロ軍が爆撃機を出撃させた際に連絡ミスで護衛の戦闘機をつけられず爆撃機が撃墜されるなどの失態が重なり、作戦は上陸地点のピッグス湾で完全な失敗に終わった。

この作戦計画はあまりにも粗雑であった。事前に亡命キューバ人側から情報が洩れ、一部アメリカのマスコミまでが作戦計画の存在を知るほどで、キューバ側は事前に反撃の準備を怠らなかった。事前に国内のカストロ政権に対する不満分子を拘束して反乱の芽を摘み取っていた。この作戦がアメリカ政府の主導で実行されたことが世界中に知られるにいたり、ケネディ政権はラテンアメリカ諸国をはじめとする各国からの非難を浴びた。

ケネディは記者会見を行い、失敗のすべての責任が計画の実行を命じた自分にあることを認めた。記者会見で「古いことわざにあるように、勝利した者には百人の生みの親が集まるが、敗北した者には一人も集まらない孤児(みなしご)だというのがある。私は政府の責任者であり、これはきわめて明白なことです」と語っている。のちにCIAに対しては軍事行動の失敗の責任を追及し、ダレスCIA長官、チャールズ・カベル副長官を更迭した。後任にはジョン・マコーンを就任させた。その後、彼は軍部とCIAをまったく信用しなくなった。そして軍事・情報分野の助言者に対しても懐疑的になった。以後、CIAと軍部との関係は冷え込んでいった。

この作戦の最終局面でアメリカ軍による爆撃をケネディが拒否したため、ケネディは亡命キューバ人団体やCIA、軍部から反感を買った。このあとにケネディに反感を募らせた亡命キューバ人グループは、2年後のケネディ暗殺事件での実行犯との疑いが持たれている。ロバート・ケネディは兄が撃たれたという第一報を聞いてCIAに疑いを持ち、マコーン長官に「CIAがやったのか」と詰問している。長官が即座に取り消して以降、亡命キューバ人グループへの疑いを深めている[注釈 53][注釈 54]

ケネディはキューバへのゲリラ活動や空軍機による空中偵察活動をその後しばらく継続させたが、やがてこの偵察機がキューバにソ連が核ミサイルを持ち込んでいることを空中写真で発見し、米ソ関係に最大の緊張が訪れた。
ウィーン会談ウィーン会談でのフルシチョフ(左)とケネディ

1961年6月3 - 4日にウィーン会談で、ケネディはソビエト連邦首相ニキータ・フルシチョフ[注釈 55] を相手に通訳のみで、一対一の首脳会談に臨んだ。議題は東西関係やキューバ、ラオス、核実験禁止、そしてベルリン問題に関してだった。

二人はラオスの中立化では合意したものの、核実験の禁止、第三世界、ベルリン問題では激しい応酬を展開した[174]。このウィーン会談は結局は何ら成果もなく平行線に終わった。

特に2日目の会談でフルシチョフは、「第二次世界大戦の終結を受けて、西ドイツ(西ベルリンを管理している)、アメリカ、イギリス、フランスの四か国とソ連は、東ドイツと平和条約を結んで第二次世界大戦の戦後処理を終結すべきだ」と主張し、「もしそれがなされれば、米英仏の軍隊は西ベルリンから撤退せねばならない」と説いた。西側の西ベルリン撤退を要求し、ソ連は東ドイツと平和条約を結ぶと通告したのである。

そんなフルシチョフに対してケネディは、「西側の権利は放棄しない」と反論し、もしフルシチョフがその主張を実行に移せば「冷たい冬」となるであろうと警告した。これに対しフルシチョフは、「西側が東ドイツと平和条約を結ぶつもりがないのなら、今年中にソ連は単独で結ぶ」と伝え、ケネディを揺さぶった。しかしケネディは、「西ベルリンの自由を妥協の対象にはしない」と通告。この会談は明日にも戦争が起きそうな緊迫感を帯びていたという。

当時、会談に同席していたフルシチョフの通訳は、のちに会談でのケネディの様子について「明らかに緊張しているのが見た目にも分かった」と証言している。会談終了後、ケネディは周囲の人間に、頑なに姿勢を変えなかったフルシチョフを罵ったとされる。この次の日にロンドンに飛んだケネディを迎えたマクミラン英国首相はのちに「ケネディは生まれて初めて自分の魅力に影響されない男に出会ったのだ」と語っていた[175]。そしてジャーナリストのジョゼフ・オルソップは、ピッグス湾事件よりもこのウィーンでの首脳会談の方がケネディにより深刻な影響を与え、しかし彼が真にアメリカの最高司令官・真の完全な大統領になったのはこのウィーンであったと述べている[176]
ベルリン危機チェックポイント・チャーリーで睨み合う米ソ両軍の戦車(1961年10月27日)

そしてウィーン会談から2か月後、次なる試練であるベルリン危機(英語版)が勃発した。

これより前の7月25日、ケネディはベルリン危機に関するテレビ演説を行い、改めて西ベルリンを守り抜く決意を表明した。そのために32億5,000万ドルの国防費増額、陸海空三軍の21万7,000人の増加、予備役の招集を発表した。このケネディの強硬姿勢に対して、1961年8月13日、フルシチョフはついにベルリンの壁を建設するという手段で対抗した。この日、東ドイツの警備隊がベルリンの東西を分ける境界にバリケードを築き、ベルリン市民の自由な行動を阻止した。昨日まで自由に東西を往来することができたが、この日から往来が不可能となって家族が離れ離れになる悲劇も生まれた。この日までに1949年以来約250万人の東ドイツ市民が西ベルリンを経由して西ドイツに流出しており、この流出を止めることなく東欧の共産主義体制の安定は不可能であった[177]


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