ジョン・ロミータ・Jrが初めてマーベルコミックスに貢献したのは13歳の時に『アメイジング・スパイダーマン』第78号(1969年11月)でプラウラー
(英語版)が創造された際であった[5]。ロミータ・JrはマーベルUK(英語版)でキャリアを始め、『アメイジング・スパイダーマン・アニュアル』第11号(1977年)の「Chaos at the Coffee Bean!」と題された6ページのストーリーでアメリカデビューを果たした[1][6]。ロミータの初期の人気は1978年にライターのデイヴィッド・ミッチェリーニ(英語版)とアーティストのボブ・レイトン(英語版)と共に『アイアンマン』のランナーとなった際に始まった。このクリエイティブチームはスタークのボディガード兼ガールフレンドであるベサニー・ケイブ(英語版)[7]やライバルの実業家であるジャスティン・ハマー[8]といった脇役を生み出した。1980年代初頭には『アメイジング・スパイダーマン』誌に参加し、また新たに創刊された『ダズラー(英語版)』誌のアーティストも務めた。ロミータとライターのデニス・オニール(英語版)は『アメイジング・スパイダーマン』第210号(1980年11月)でマダム・ウェブ[9]、第212号(1981年1月)でハイドロマン(英語版)[10]を初登場させた。1982年にロミータはマーベルコミックで初めてのリミテッド・シリーズ(英語版)である『マーベルスーパーヒーロー・コンテスト・オブ・チャンピオンズ(英語版)』[11]の作画を務めた。『アメイジング・スパイダーマン』誌でライターのロジャー・スターン(英語版)と働いていた頃にはホブゴブリンを共同で創造した[12]。1983年から1986年までは『アンキャニィX-MEN』にダン・グリーン(英語版)とライターのクリス・クレアモント(英語版)と共に参加し、フォージ(英語版)を共同で生み出した[13]。ロミータは1993年にも『アンキャニィX-MEN』に復帰した[6]。
1988年から1990年にかけてはライターのアン・ノセンティ(英語版)、インカーのアル・ウィリアムソン(英語版)と共に『デアデビル』を手がけ、タイフォイド・マリー(英語版)を創造した[14]。彼は後に「私がDDを手がけていた間、私が初めて作成プロセスの一部であったように最終的に感じた」と述べている[15]。
1990年代には『アイアンマン』に復帰してジョン・バーン(英語版)脚本の「Armor Wars II」や『パニッシャー・ウォー・ゾーン(英語版)』[16]、ミニシリーズ『ケーブル』[17]、DCコミックスとの企業間クロスオーバー『パニッシャー/バットマン』を手がけた。この間にインカーのクラウス・ヤンソン(英語版)と頻繁に活動した[6]。1993年にロミータはフランク・ミラーとコラボレーションしてデアデビルのオリジンストーリー『Daredevil: The Man Without Fear』を手がけていた[18]。このストーリーは当初は64ページのグラフィックノベルであったが144ページに増加し、最終的に全5号のリミテッド・シリーズにまで大きくなった[15]。1998年7月にロミータはダン・ユルゲン(英語版)と共に『ソー』[19]、1999年1月にはハワード・マッキー(英語版)と共に『ピーター・パーカー: スパイダーマン(英語版)』をリランチした[20]。