ジョン・ロック
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ジョン・ロック(英語: John Locke FRS1632年8月29日 - 1704年10月28日)は、イギリス哲学者。哲学者としては、イギリス経験論の父と呼ばれ、主著『人間悟性論』(『人間知性論』)において経験論的認識論を体系化した。また、「自由主義の父」とも呼ばれ[2][3][4]政治哲学者としての側面も非常に有名である。『統治二論(統治論二篇)』などにおける彼の政治思想名誉革命を理論的に正当化するものとなり、その中で示された社会契約抵抗権についての考えはアメリカ独立宣言フランス人権宣言に大きな影響を与えた。
概要

ロックの著作の大部分は1687年から1693年の間に刊行されているが、明晰と精密、率直と的確がその特徴とされており、哲学においては、イギリス経験論の父であるだけでなく、政治学法学においても、自然権論社会契約の形成に、経済学においても、古典派経済学の形成に多大な影響力を与えた。
生涯

1632年8月29日、父ジョン・ロックと母アグネス・キーンの第一子として[5]サマセット州の小さな村リントン(英語版)に生まれる[6]。父はサマセット州の治安判事の事務弁護士兼書記として、治安判事[7]短期議会長期議会の議員となったアレグザンダー・ポパムに仕えていた[8]

1646年にポパムの推薦でウェストミンスター校に入学し、1652年オックスフォード大学クライスト・チャーチに入学するも古典を学ぶことに疑問を持ち、ルネ・デカルトの著書に触れたことで哲学に関心を持つこととなった[9]1658年にはオックスフォード大学特別研究員となり、チャールズ2世のもとでスチュアート朝が復活した1660年には同大ギリシア語講師、1662年には同大修辞学講師をつとめた。1664年『自然法論』を執筆(未公刊)。1665年には外交官の秘書としてブランデンブルク選帝侯のいるクレーヴェに派遣された。

1666年にはオックスフォードにやってきたホイッグ党の領袖である初代シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーと知り合い、ロックの思想を気に入ったシャフツベリに以後愛顧を受けるようになった。1667年シャフツベリ伯爵の私設秘書官、主治医となる。同年にはオックスフォードを離れてロンドンに移住し、以後はシャフツベリ伯爵のブレーンとして利子率論争で自由放任を主張したり、王権に対する政治・信教の自由を論じたりした。1668年に『解剖学』、1669年『医術について』を執筆した。1668年11月26日には王立協会フェローに選出された[10]

1673年には通商植民地委員会の主事に就任し翌年までつとめるが、1673年シャフツベリは下野した。1675年から1679年にはフランスに旅行し、パリモンペリエに滞在している。1680年ごろ、トーリー党の精神的支柱となるロバート・フィルマーの『家父長権論』が出版され、これに対する反論として『統治二論』を執筆する。1682年にシャフツベリが反逆罪に問われオランダに亡命したときはロックはイギリスにとどまったものの、王からの迫害を恐れ、翌1683年にはシャフツベリのいるオランダ亡命した[11]。同年シャフツベリは死去したものの、ロックはユトレヒトアムステルダムロッテルダムと転居しながら1689年まで亡命生活を続けた[12]

名誉革命1688年に起きると翌1689年に帰国し[13]、以後執筆活動を盛んにおこなった。帰国後2年間は、ロンドンの借家に住んでいたが、『人間悟性論』を出版した年の秋、健康が優れなくなり、エセックス州のハイ・レイヴァーにあるマシャム卿夫妻の館(オーツ邸)に移った。マシャム夫人は、ケンブリッジ・プラトニストのラルフ・カドワースの娘で幼い頃からのロックの知人であった。家族は夫妻とカドワースの未亡人と2人の子どもで、ロックは進んで子どもたちの家庭教師と家族の助言者を勤めた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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