ジョン・ロックフェラー
John Rockefeller
1885年に撮影された写真
生誕John Davison Rockefeller
(1839-07-08) 1839年7月8日
アメリカ合衆国 ニューヨーク州リッチフォード
ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニア(John Davison Rockefeller, Sr、1839年7月8日 - 1937年5月23日)は、アメリカ合衆国の実業家、慈善家。石油王と称えられた。
1870年にスタンダード・オイル社を創業し、ピーク時はアメリカの石油の90%をコントロールするなど[1]、同社は石油市場を独占してアメリカ初のトラストを結成した。1897年に事実上引退し、その後は現代的フィランソロピーの構造を定義し、慈善活動に力を入れた[2]。その資産はピーク時には9億ドルに上り、国の経済の1.5%以上であった。物価の変動を考慮すると史上最大の資産を持つ富豪とされている[3]。
慈善活動の現代的かつ体系的アプローチの構築に引退後の40年間、資産の大部分を使った。医療・教育・科学研究促進などを目的とした財団を創設した[4]。彼が創設した財団は医学研究を推進し、鉤虫症や黄熱病の根絶に貢献した。また、シカゴ大学とロックフェラー大学を創設した。
熱心なバプテスト信者であり、生涯にわたって米国バプテスト同盟を支援した。彼は酒とタバコを嗜まなかった[5]。
前半生リッチフォードの生家
ニューヨーク州リッチフォード(英語版)で、ウィリアム・エーヴリー・ロックフェラー(英語版)(1810年11月13日 - 1906年5月11日)とその妻イライザ・デイヴィソン(1813年9月12日 - 1889年3月28日)の6人の子供の2番目として生まれた。長年に渡りフランス系の起源を持つとされてきたが、現在ではロックフェラー家が17世紀初頭のドイツに始まったことが判明している[6]。父はかつて林業を営んでいたが、巡回セールスマンとなり「植物の医師」(botanic physician) を名乗ってエリキシールを売り歩いた。近所の人々はそんな珍しいもの好きの父を Big Bill とか Devil Bill と呼んだ[7]。旅に出ていることが多く、家には闖入者のように時折帰ってくるだけだった。父は生涯に亘って真面目に働こうとせず、常に一山当てようと目論んでいるような男だった[8]。イライザは信心深いバプテストであり、夫が不在の間家庭を維持するため奮闘した。夫は頻繁に外に女を作り、時には重婚していたこともあるが耐え抜いた[9]。自然に倹約が常となり、息子には「故意の浪費は悲惨な欠乏を招く」と教え込んだ[10]。若きロックフェラーも家事を手伝い、七面鳥を育てて金を稼ぎ、ジャガイモや飴を売ったり、近所に金を貸すなどして家計を助けた。「小皿を大皿と交換しろ」という父の助言に従い、彼は常に取引で有利になることを心がけていた。父は「チャンスがあれば息子達も騙す。そうして奴らを敏感にしたい」と言っていた[11]。
少年のころ一家でニューヨーク州モレイビアに引越し、1851年にはさらに同州オウィーゴに引越しており、オウィーゴでは学校に通っている。1853年、クリーブランド近郊のストロングスビルに移った。クリーブランド中央高校で学び、商業専門学校で10週間のビジネスコースを受講し簿記を学んだ[12]。
父の不在と頻繁な転居にもかかわらず、ロックフェラーは行儀がよく、真面目で、熱心な少年に育った。当時を知る人は彼を、控え目で真面目で信心深く几帳面で分別があったと評している。議論がうまく、正確に自分の考えを表現できた。また音楽好きで、将来それで身を立てたいという夢を持っていた[13]。