ジョン・レノンの殺害
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インタビューが終了した17時40分、迎えのリムジンが遅れて到着、レノンとヨーコは「Walking on Thin Ice(英語版)」[8]のミキシング作業を行うため レコード・プラント・スタジオに直行した[9]
マーク・デイヴィッド・チャップマン詳細は「マーク・チャップマン」を参照

レノンがRKOラジオ・ネットワークのスタッフと共にリムジンに向かう途中、レノンのサインを求める人が数名近づいてきた。その中の1人に犯人のマーク・デイヴィッド・チャップマンがいた[10]。このころ、ダコタ・ハウスの外でファンがレノンを待ち構え、サインをねだるという光景はよくあることだった[11]ハワイのホノルルから来た当時25歳の警備員チャップマンは、その年の10月にもレノンの殺害を実行するためニューヨークを訪れていたが、そのときは心変わりして帰郷したとのこと[12]。チャップマンはレノンにアルバム『ダブル・ファンタジー』を無言で手渡し、レノンがそれにサインした[10]。サインし終えたレノンが「君がほしいのはこれだけかい?」と尋ねると、チャップマンは笑顔で頷いた。写真家でレノンのファンでもあるポール・ゴレシュ(Paul Goresh)は、この瞬間を写真に収めている[13]。この時レノンがサインした「ダブル・ファンタジー」は証拠品として警察に押収、後にオークションへ出品。1999年に15万ドルで売却された後、2010年に85万ドル、2017年には150万ドルで売りに出された[14]

チャップマンは、同日の午前中からダコタ・ハウスの外でレノンを待ち構えており、午後にはベビーシッターのヘレン・シーマン(Helen Seaman)と共に帰宅したレノンの息子のショーン(当時5歳)にも遭遇している。チャップマンによれば、彼はショーンの手を、ちょっとの間触ったという[15]

レノン夫妻は22時50分頃にダコタ・ハウスに戻るまで、数時間レコード・プラント・スタジオで過ごした[16]。レノンは急遽ショーンにおやすみのあいさつをするために一旦ダコタ・ハウスに戻り、ヨーコとともに近くのレストランステージ・デリ(英語版)へ向かうことにした[16]。レノンは長い時間待つファンに対し、誰にでもサインや写真撮影に応じていた。レノンは、2日前の1980年12月6日BBCラジオ1でのインタビューで、DJのアンディー・ピーブルズ(英語版)[17]に対し「みんなやって来てはサインをねだったり、'ハイ'とあいさつしたりするだけで、困るようなことをするわけじゃない」と話している[4]。そのため、レノン夫妻はダコタ・ハウスのより安全な中庭でリムジンを停車させる代わりに、手前の72丁目(英語版)で車を降りた[18]
殺害

ダコタ・ハウスのドアマンで元CIAのエージェントのホセ・サンヘニス・ペルドモ(スペイン語版)と付近にいたタクシー運転手は、チャップマンが歩道上で玄関アーチの陰に潜んで立っていたのを目撃していた。レノンはチャップマンの前を通り過ぎる際、チャップマンを一瞥し、数時間前に会ったことを思い出していたようであったという[19]。その数秒後、チャップマンはチャーター・アームズ社(英語版)製の.38スペシャル弾回転式拳銃アンダーカバーでレノンの背中の中央に狙いを定め、 ホローポイント弾を5発、およそ3メートル(9?10フィート)離れたところから立て続けに発射した[1]。その夜にニューヨーク市警察が出した声明、その他メディアの報道によれば、チャップマンは発砲する前に大声で「ミスター・レノン?」と呼びかけ、銃をコンバット・スタイルで構えた。しかし、後に開かれた公判での聴取及び目撃者へのインタビューでは「ミスター・レノン?」という呼びかけやコンバット・スタイルについての言及はない。チャップマン自身は、発砲前にレノンの名前を呼んだか覚えていないと述べているが[20][21][22]1992年バーバラ・ウォルターズから受けたインタビューでは、コンバット・スタイルを取ったこと自体については認めている[23]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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