しかしながら、1901年以降、シェアは落ち込んだ。シュワブ自身が、自らの予測を覆す役割を演じたのである。すなわち、USスチールは巨大に過ぎた。シュワブは1903年にUSスチールを辞し、ベスレヘム・スチール(現ミッタル・スチール)を設立。建設現場で使用されるH形鋼を開発するなどしてアメリカ国内のシェアでは第2位となったのである。 1900年までに、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは世界でもっとも力のある金融会社となり、とりわけ再編・再建と統合を手がけることで知られた。そのころ、モルガンはジョージ・パーキンス
J・P・モルガン・アンド・カンパニー
J・P・モルガン・アンド・カンパニーは、フィラデルフィアのドレクセル・アンド・カンパニーをはじめ、パリのモルガン・ハージェス・アンド・カンパニー、ロンドンのJ・S・モルガン・アンド・カンパニーと密接な関係を持ち続けた。
モルガン・ハージェス・アンド・カンパニーは、元々がドレクセルとジョン・ハージェスの事業であった。パナマ運河をめぐり、合衆国は利権を買うためにフランスへ5000万ドル支払った。この金を二人が工面した。しかしドレクセルが死んで、事業はモルガンの名を冠した。
J・S・モルガン・アンド・カンパニーへは、1904年にエドワード・グレンフェルが共同経営者として参加した。5年後、彼の地位を反映させるためモルガン・グレンフェル・アンド・カンパニーに改名した。このモルガン・グレンフェル銀行はドイツ銀行に買収されて、ドイチェ・モルガン・グレンフェル銀行となった[12]。
海運トラストの形成「海運アライアンス」も参照
モルガンは東部・西部ともに鉄道網に深く関わっていたが、その頃、アメリカ西部の貨物は鉄道で東海岸に運ばれ、イギリスの海運会社などによりヨーロッパに運ばれていた。大西洋の航路は、モルガニゼーション以前の鉄道業界と同じく、運賃の値下げ競争が激しく、業界が疲弊していた。陸上輸送(鉄道)を支配していたモルガンは、海上輸送を他人の手に委ねておく手はないとし、海運業界の統合・支配を画策した。これにより、アメリカ西部の貨物をモルガンの息のかかった運送会社のみを経由してヨーロッパに届けることができるようになった。
1902年、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは大西洋の海運の統合をめざし、モンテズン・ラインやイギリスの海運会社を買収、国際海運商事(International Mercantile Marine Co.、IMM)を設立した。IMMはホワイト・スター・ラインの親会社であり、タイタニックを建造・就航させたことで知られる。ハパックロイドと協力してキュナード・ラインと激しい競争を展開した。 1878年12月31日、ドレクセル・アンド・カンパニーはトーマス・エジソンと契約した。モルガン肝いりのエジスト・ファブリ
電気・無線への投資
一方、ドレクセル・アンド・カンパニーはエジソンの電気照明会社EEIC へ巨額を投じた[14]。EEIC は1882年当初電気料金を徴収せず、翌年の四半期2回続けて12000ドル以上の損失を出して、通年でも赤字を計上した[15]。EEIC は資金難に直面、発行株式が投資家に敬遠されたのを受けて、保証シンジケート団をつくった。そして引受参加者にEEIC 株式の相当割合を無償で発行することにした。[16] ドレクセル・アンド・カンパニーはシ団の中心となったのである。
1892年、モルガンはエジソン・ゼネラル・エレクトリックとトムソン・ヒューストン・エレクトリックを合併、ゼネラル・エレクトリックを誕生させた。こうしてモルガンの自邸は個人の家として初めて電灯が灯った。
1900年ニコラ・テスラのすすめで、グリエルモ・マルコーニの無線通信実験にウォーデンクリフ・タワーの建設費を含めた15万ドルを融資した。