ジョン・モルガン
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

のちに合衆国最高裁判所裁判官となったルイス・ブランダイスはこの資産はミシシッピ川以西の22州の規模に匹敵するとした[7]。プジョー委員会はインサイダー取引や取引所ぐるみの株価操作が日常化しているウォール街の改革案として、有価証券リテールの連邦政府監視や株式公募のインベスター・リレーションズを主張したが、第一次世界大戦が勃発して改革は立ち消えとなってしまった[8]
鉄鋼トラストの形成

モルガンはフェデラル・スチールの創立に融資したのち、 カーネギー・スチール(Carnegie Steel Company)及びその他数社の製鉄企業を合併して USスチールを設立。カーネギー・スチールの買収額は4億8700万ドルであった[9][10]

この買収劇がメディアに届いたのは1901年1月半ばであった。同年、モルガンはいくつかの鉄鋼会社を統合しUSスチールを設立した。USスチールは世界初の10億ドル企業となり、株式の時価総額は14億ドルとなった[11]

USスチールは輸送経費・生産経費の削減と配当の増大とを両立させ、生産性の拡大をめざした[9]。これはまた、アメリカの製鉄が国際的な市場においてイギリスとドイツを打ち負かすための計画でもあった。USスチールは、初代社長のチャールズ・シュワブらにより、グローバリゼーションのために必要だと主張された [9]。USスチールはアメリカン・ブリッジやアメリカン・スチール・アンド・ワイヤーなどの企業を傘下に納め、鉄鋼生産だけでなく橋梁製作、造船、鉄道車両やレールの製造、ワイヤーその他の生産においても他を圧倒しようとしており、シュワブは、1901年には鉄鋼生産の3分の2を占めたUSスチールのシェアはすぐに75%にまでなると信じていた[9]。批評家たちはUSスチールをトラストだと考えていた。

しかしながら、1901年以降、シェアは落ち込んだ。シュワブ自身が、自らの予測を覆す役割を演じたのである。すなわち、USスチールは巨大に過ぎた。シュワブは1903年にUSスチールを辞し、ベスレヘム・スチール(現ミッタル・スチール)を設立。建設現場で使用されるH形鋼を開発するなどしてアメリカ国内のシェアでは第2位となったのである。
J・P・モルガン・アンド・カンパニー

1900年までに、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは世界でもっとも力のある金融会社となり、とりわけ再編・再建と統合を手がけることで知られた。そのころ、モルガンはジョージ・パーキンスをパートナーとした。

J・P・モルガン・アンド・カンパニーは、フィラデルフィアドレクセル・アンド・カンパニーをはじめ、パリのモルガン・ハージェス・アンド・カンパニー、ロンドンのJ・S・モルガン・アンド・カンパニーと密接な関係を持ち続けた。

モルガン・ハージェス・アンド・カンパニーは、元々がドレクセルとジョン・ハージェスの事業であった。パナマ運河をめぐり、合衆国は利権を買うためにフランスへ5000万ドル支払った。この金を二人が工面した。しかしドレクセルが死んで、事業はモルガンの名を冠した。

J・S・モルガン・アンド・カンパニーへは、1904年にエドワード・グレンフェルが共同経営者として参加した。5年後、彼の地位を反映させるためモルガン・グレンフェル・アンド・カンパニーに改名した。このモルガン・グレンフェル銀行はドイツ銀行に買収されて、ドイチェ・モルガン・グレンフェル銀行となった[12]
海運トラストの形成「海運アライアンス」も参照

モルガンは東部・西部ともに鉄道網に深く関わっていたが、その頃、アメリカ西部の貨物は鉄道で東海岸に運ばれ、イギリスの海運会社などによりヨーロッパに運ばれていた。大西洋の航路は、モルガニゼーション以前の鉄道業界と同じく、運賃の値下げ競争が激しく、業界が疲弊していた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:54 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef