モルガンは東部・西部ともに鉄道網に深く関わっていたが、その頃、アメリカ西部の貨物は鉄道で東海岸に運ばれ、イギリスの海運会社などによりヨーロッパに運ばれていた。大西洋の航路は、モルガニゼーション以前の鉄道業界と同じく、運賃の値下げ競争が激しく、業界が疲弊していた。陸上輸送(鉄道)を支配していたモルガンは、海上輸送を他人の手に委ねておく手はないとし、海運業界の統合・支配を画策した。これにより、アメリカ西部の貨物をモルガンの息のかかった運送会社のみを経由してヨーロッパに届けることができるようになった。
1902年、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは大西洋の海運の統合をめざし、モンテズン・ラインやイギリスの海運会社を買収、国際海運商事(International Mercantile Marine Co.、IMM)を設立した。IMMはホワイト・スター・ラインの親会社であり、タイタニックを建造・就航させたことで知られる。ハパックロイドと協力してキュナード・ラインと激しい競争を展開した。 1878年12月31日、ドレクセル・アンド・カンパニーはトーマス・エジソンと契約した。モルガン肝いりのエジスト・ファブリ
電気・無線への投資
一方、ドレクセル・アンド・カンパニーはエジソンの電気照明会社EEIC へ巨額を投じた[14]。EEIC は1882年当初電気料金を徴収せず、翌年の四半期2回続けて12000ドル以上の損失を出して、通年でも赤字を計上した[15]。EEIC は資金難に直面、発行株式が投資家に敬遠されたのを受けて、保証シンジケート団をつくった。そして引受参加者にEEIC 株式の相当割合を無償で発行することにした。[16] ドレクセル・アンド・カンパニーはシ団の中心となったのである。
1892年、モルガンはエジソン・ゼネラル・エレクトリックとトムソン・ヒューストン・エレクトリックを合併、ゼネラル・エレクトリックを誕生させた。こうしてモルガンの自邸は個人の家として初めて電灯が灯った。
1900年ニコラ・テスラのすすめで、グリエルモ・マルコーニの無線通信実験にウォーデンクリフ・タワーの建設費を含めた15万ドルを融資した。条件は特許利益の半分。実験は大西洋をまたにかけて行われた。マルコーニの無線はやがて世界を席巻する。テスラは契約してすぐに欲を出した。事業を無線送電に拡大したいというのである。しかしモルガンは契約違反と解釈した。融資が途絶えて1906年にタワー廃業となった。[17][18] また、この頃にモルガンはAT&T と人的・資本的関係を深めた。
ロンドン詳細は「JPモルガン・チェース#JPモルガン」を参照
1838年 - ピーボディ・アンド・カンパニー
1843年 - ジョージ・ピーボディ
1851年 - ジョージ・ピーボディ・アンド・カンパニー
1864年 - ジュニーアス・モルガンがピーボディのパートナーとなる
1864年 - J・S・モルガン・アンド・カンパニー
1910年 - モルガン・グレンフェル・アンド・カンパニー
1934年 - J・P・モルガン・アンド・カンパニー保有の株式が3分の1となる。のち1981年から翌年にかけてすべて売却
1989年 - ドイツ銀行がモルガン・グレンフェルを買収
ニューヨーク
1861年 - J・P・モルガン・アンド・カンパニー
1864年 - ダブニー・モルガン・アンド・カンパニー
1871年 - ドレクセル・モルガン・アンド・カンパニー
1895年 - J・P・モルガン・アンド・カンパニー
1935年 - グラス・スティーガル法を受け、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは商業銀行になる。