ジョン・メイナード・ケインズ
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ケンブリッジ大学では、数学を専攻した[11]。学生時代は、政治にも関心を持ち、さまざまな活動を行い、学内のサークル「ザ・ソサエティ」では代表を務めた[11]。1905年にはアルフレッド・マーシャルに学び、経済学の道へと進んだ[12]

ケインズは、1906年にケンブリッジ大学卒業後、高等文官試験を2位で通過して、インド省に就職した[13]。その後、1908年にインド省を退官し、ケンブリッジ大学に戻ってキングス・カレッジの研究員となった[13]。大学では講師として貨幣論を研究・担当し、また経済原論も講義するようになった[14]1912年には経済学誌のエコノミック・ジャーナル誌編集者に就任し、1945年まで務めている[14]。その後、1915年には大蔵省に移り、役人生活を送る[13]

1919年第一次世界大戦の終結のためのパリ講和会議に大蔵省首席代表として参加したものの、寛大な賠償を主張するケインズの提案は受け入れられず、敗戦国ドイツに対し莫大な賠償請求が突きつけられることとなった。これに反対したケインズは6月に大蔵省を退職し[15]、再びケンブリッジ大学に戻る[13]。同年12月にはパリ講和会議の内幕とその失敗を論証した『平和の経済的帰結』を発表し、ベストセラーとなったものの強い批判を浴びた[16]

その後、1921年には長年の研究をまとめた『確率論』を発表し、1923年には『貨幣改革論』を発表した[17]1925年には当時の保守党政権の大蔵大臣であったウィンストン・チャーチル金本位制復帰政策に反対して『チャーチル氏の経済的帰結』を発表し、金本位制復帰論争を引き起こした[18]。その後も1926年に『自由放任の終わり』、1930年に『貨幣論』を発表するなど活発な活動を続けた。またこのころ、ケンブリッジに所属する若手の経済学者が定期的な会合を開き、『貨幣論』の内容に対する討論を行っていた。この集まりはケインズサーカス(ケンブリッジサーカス)と呼ばれ、リチャード・カーンを中心として、ピエロ・スラッファジェームス・ミードオースティン・ロビンソンジョーン・ロビンソンによって構成されていた。このグループの活動期間は短かったが、乗数効果概念の発展に大きな役割を果たした[19]

1936年、ケインズは彼の代表作となる『雇用・利子および貨幣の一般理論』を発表し、激しい論争を呼び起こしたが、この書に端を発するケインズ経済学はまもなく経済学の主流となった。1937年夏に心臓発作を起こして一時活動を縮小するものの[20]、1940年には大蔵大臣の経済顧問として21年ぶりに大蔵省に復帰した。1940年6月、大蔵省とイングランド銀行員からなる為替管理会議委員に指名される[21]1941年には大蔵大臣顧問となり、9月にはイングランド銀行理事に就任した[22]

1942年6月、Baron Keynes of Tilton(ティルトンのケインズ男爵)の爵位を授けられ、上院の自由党席に着く[21][23]

1944年にはブレトンウッズ連合国通貨会議に参加し、主にアメリカと戦時借款や戦後経済体制に対してイギリスの立場から交渉を繰り返し、バンコールという国際通貨の創設を提案するが、結局はアメリカのハリー・ホワイト案による国際通貨基金および世界銀行の設立案が通り、ブレトン・ウッズ体制が築かれることとなった。

1945年には、自分の教え子だった労働党のヒュー・ドールトン蔵相の顧問を8ヶ月務め、同年、計量経済学会会長に就任[24]

1946年2月、ブレトン・ウッズで創設された国際通貨基金 (IMF)国際復興開発銀行 (IBRD)の理事に任命された[25]。しかし、こうした激務は彼の健康を損なっていき、1946年に心臓発作で倒れ、サセックス州ファールで4月21日に没した[26]
経済学者として詳細は「ケインズ経済学」を参照
ケインズ・モデル

雇用・利子および貨幣の一般理論』(1935年 - 1936年)では、不完全雇用のもとでも均衡は成立し得るとし、また完全雇用を与えるための理論として、反セイの法則を打ち立てて、「産出高は消費と投資とからなる」とする有効需要の原理を基礎として、有効需要の不足に基づく非自発的な失業の原因を明らかにした。

有効需要は、市場メカニズムに任せた場合には不足することがある。しかし、ケインズは、投資の増加が所得の増加量を決定するという乗数理論に基づいて、減税・公共投資などの政策により投資を増大させるように仕向けることで、有効需要は回復することができるとした。生産者が価格を変えずに、供給量を総需要に応じて調整する[27]。ケインズは総需要の増大させる方法として、財政政策、特に財政支出政策を重視した[28]

なお、上の議論に対しては、公共投資政策ないし投資の国家管理の本質は、単なる有効需要の付加ではなく、政府による公共投資が企業家のマインドを改善することで経済全体の投資水準が底上げされ得るという点にあり、生産手段の国有化を意味するものではない。

これらの彼の提唱した理論を基礎とする経済学を「ケインズ経済学」(「ケインズ主義」ともいう)と呼ぶ。このケインズの考え方は経済学を古典派経済学者とケインジアンとに真っ二つに分けることとなった。そのため、ケインズ理論の提唱は、のちにケインズ革命と呼ばれるようになった。

ケインズは、大不況下では、金融政策は効果的ではなく、消費を直接的に増やす財政支出政策が最も効果があると主張した[28]


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