ジョン・ヘンリー・ゴドフリー
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彼はバーミンガムのエドワード国王記念学校(英語版)、ブラッドフィールド・カレッジ(英語版)[1]ブリタニア海軍兵学校で教育を受けた。1921年、バーサ・マーガレット(Bertha Margaret)と結婚。後に3人の娘をもうけた。

第一次世界大戦中、ゴドフリーは装甲巡洋艦ユーライアラス(英語版)の乗員として1915年からのガリポリの戦い、サルーム(英語版)の再占領作戦、スミルナ砲撃、紅海方面におけるアラブ反乱軍への支援任務に参加した。1916年から1919年まで地中海艦隊司令長官付幕僚、1921年から1931年まで海軍参謀大学校(英語版)副校長を務めた。1931年から1933年、中国艦隊にて重巡洋艦ケントおよび重巡洋艦サフォークで艦長を務める。1933年から1935年、海軍本部作戦部で副部長として勤務。1936年から1939年、巡洋戦艦レパルスで艦長を務める。1939年から1942年、英海軍情報部(英語版)(NID)の部長を務める。1943年から1946年、英印海軍(英語版)の司令長官として勤務する。1946年2月に英印海軍の反乱(英語版)が起きた時、彼は放送を通じて反乱軍に「服従か死か」(Submit or perish)と問いかけた。

階級は1928年に大佐(Captain)、1939年に少将(Rear-Admiral)、1942年に中将(Vice-Admiral)と昇進し、1945年に大将(Admiral)の階級が送られた。1939年にはバス勲章コンパニオン級(BC)を受章した。そのほか、エジプトのナイル勲章、フランスのレジオンドヌール勲章シュヴァリエ級などを受章している[1]

退役後、チェルシー病院(英語版)の経営委員会(Management Committee)にて委員長を1949年から1960年まで務める。同じ時期、シャーロット女王記念病院(英語版)およびチェルシー女性病院の理事会(Board of Governors)、エドワード国王ロンドン病院財団(英語版)およびローディーン・スクール(英語版)の評議会(Council)にも名を置いた。また、ゴドフリーはチェルシー麻痺児センター(Centre for Spastic Children, Chelsea)の創設者でもある。第二次世界大戦中にNIDのエージェントとして活動していた作家イアン・フレミングはスパイ小説『ジェームズ・ボンド』シリーズにおいて、かつて自らの上官であったゴドフリーをモデルに主人公ジェームズ・ボンドの上司Mを作り上げた。ゴドフリー自身は、これについて「私を不愉快なキャラクター、Mに作り変えた」と不快感を語っている[2]

1966年から1967年、ゴドフリーはチャーチル・カレッジに自らの回顧録を寄せた。この回顧録の大部分は未発表の情報源に基づき、一部は戦後発表されたNIDの公的な記録に基いて書かれている。1970年、イーストボーンにて死去。
脚注^ a b “ ⇒The Papers of Admiral John Henry Godfrey”. Janus. Cambridge University. 2012年10月31日閲覧。
^ Macintyre, Ben (2008年4月5日). ⇒“Was Ian Fleming the real 007?”. The Times. ⇒http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/specials/for_your_eyes_only/article3652410.ece 2011年3月8日閲覧。 

参考文献

Who Was Who

軍職
先代
ハーバード・フィッツハーバード(英語版)中将英印海軍司令長官(英語版)
1943年 - 1946年次代
ジェフリー・オードリー・マイルズ(英語版)大将
先代
ジェームズ・トループ中将(James Troup)海軍情報部部長(英語版)
1939年 - 1943年次代
エドムント・ラッシュブルック少将(Edmund Rushbrooke)

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