ジョン・ブラウン_(奴隷制度廃止運動家)
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ブラウンも病気になって事業がうまく行かなくなり、かなりの借金を背負い込むことになった。1832年の夏、生まれたばかりの息子に続いて、妻のダイアンズが死んだ。1833年6月14日、ブラウンはペンシルベニア州ミードビル出身で16歳のメアリー・アン・デイ (1817-1884)と結婚した。前の妻との間には7人の子供が生まれていたが、これに加えて13人の子供が生まれた。

1836年、ブラウンは家族と共にオハイオ州フランクリンミルズ(現在のケント)に移住した。そこで金を借りて土地を買い、ゼナス・ケントとの共同でカヤホガ川添いになめし皮工場を建てて経営した。[7]1839年、経済危機の中でブラウンはまた大きな損失を生じさせた。この経済危機は1837年の恐慌よりも西部の諸州には厳しい打撃を与えた。オハイオ州中で重い借金を抱え込む傾向となり、ブラウンの様な多くの実業家が信用貸しや州の基金を当てにし過ぎて、その返済に窮することになった。財産の損失に関するエピソードで、ブラウンは自分が持っていた土地の新しい所有者の抗議にも拘わらず明け渡そうとしなかったので、収監されたという。その時代と背景にあった多くの意志ある者達と同様に、ブラウンは借金を返済するために多くの事業に手を染めた。なめし皮や牛の商売以外にも、馬や羊の飼育を試みたが、このことはブラウンが世に出る前の職業の中でも顕著な側面となった。ジョン・ブラウンの最初の写真 1846年

1837年、イライジャ・P・ラブジョイの殺人が起きたときに、ブラウンは大衆の前で「ここに、神の御前で、これらの証人の前で、これから、私はこの人生を奴隷制度の破壊のために捧げる!」と誓った。ブラウンは1842年9月28日に連邦裁判所により破産を宣告された。1843年、子供達のうち4人が赤痢で死んだ。ルイズ・デカロ・ジュニアが2007年のブラウンの伝記に示しているように、1840年代中頃から、ブラウンは質の良い羊と羊毛の専門家としての評判が立ち、富裕なアクロナイト・サイモン・パーキンス・ジュニアとの共同経営を始め、その牧場と農場をブラウンと息子達で経営した。ブラウンと地域の養羊家との交際が深まるにつれて、農業雑誌でもブラウンの専門性がしばしば取り上げられるようになった。ブラウンは羊と羊毛に関連してその行動範囲が拡がっていった(このときに他の熱心な反奴隷制度運動家との接触があった)。1846年、ブラウンとパーキンスはマサチューセッツ州スプリングフィールドで羊毛の取次業を始め、ニューイングランドの毛糸製造者が利益を独占していたのに対抗し羊毛生産者の利益を代表しようとした。ブラウンは初め、素朴に製造者を信用したが、直ぐに製造者達が価格設定を支配しようとしており、農夫の力が上がってくることを恐れていると気付いた。事態をさらに悪くしたのは、養羊家達の大半が組織されておらず、市場に出す羊毛の量や質を進んで改善しようとはしていなかったことである。「オハイオ耕作者」に見られるように、ブラウン達羊毛生産者はこの問題を合衆国の輸出用羊毛を損なう事として既に不平を言うようになっていた。ブラウンはヨーロッパに本拠を置く製造者と提携することによりニューイングランドの毛糸製造者に打ち勝とうと最後の試みをしたが、ヨーロッパの製造者も単にアメリカの羊毛を安く買いたいだけだと知って失望してしまった。ブラウンは高値で売るためにヨーロッパに旅した。この出張は大失敗に終わり、4万ドルの損失を生じさせ、結局パーキンスが負担することになった。

パーキンスとブラウンの仲買業は1849年に終った。そのあとで訴訟問題が持ち上がり共同経営者を数年間拘束することになった。ただし、ブラウンの人生や決断についてこの事業の不幸な崩壊を大げさに言い立てる者もいる。パーキンスが損失の大半を受け持ち、この共同経営はあと数年続くことになったが、ブラウンが1854年までになんとか収支があうようにした。共同経営を解散したあとも二人の友情は続いた。ブラウンは農場経営と羊を飼育することでは大きな天分と判断力があったが、事業の管理者ではなかった。パーキンスとブラウンが共に過ごした年月は、ブラウンの広く好まれる専門家としての一面を見させただけでなく、カンザスでのゲリラ活動の前の10年間、オハイオ、ペンシルベニアおよびウエストバージニアの経済的に脆弱な農夫のためにブラウンを駆り立てて戦わせることになった弱者に対する熱意を反映することになった。
カンザスでの行動

1855年、ニューヨーク州ノース・エルバ(レークプラシッド近く)に家族で再移住してから間もなく、カンザス準州にいる成人した息子達から知らせが入り、そこの奴隷制度擁護派の者達が好戦的であり、息子達の家族が完全に備えのないまま攻撃される危機にあるとのことだった。ブラウンは家族を守り奴隷制度擁護派の支持者の進出に対抗することに決め、カンザスへ旅立った。途中で義理の息子を仲間に入れ、幾つかの町に立ち寄っては資金や武器を集めた。ニューヨークの「トリビューン」誌が報告しているように、ブラウンは1855年にニューヨーク州オールバニで開催された反奴隷制度会議に参加するために、この途次で立ち寄った。自由州側のために暴力的な行動の支持について会議の場で起きた議論にも拘わらず、数人がブラウンに財政的な援助を申し出た。しかし、西に向かうに連れて、故郷のオハイオでは好戦的な支持を得、強い反奴隷制度派である西部保留地では後援を受けた。
ポタワトミー

ブラウンと自由州の開拓者達は、カンザスを自由州の仲間に組み込むことについて楽観していた。しかし、1855年遅くから1856年早くにかけて、カンザスを奴隷州にするために奴隷制度擁護派の者が進んで法を犯すことも辞さないでいることが分かってきた。ブラウンはテロリズム、不正行為さらには破壊的な攻撃が、当時「ボーダー・ラフィアンズ(英語版)」と呼ばれていた奴隷制度擁護派の明確な日程に入ることになると信じた。1856年の雪が溶けた後で、奴隷制度擁護派はカンザスを自分達の側に付かせるための活動を始めた。ブラウンは1856年5月21日に保安官に率いられた一団が新聞局とホテルを破壊した「ローレンスの破壊」で特に心を揺り動かされた。一人の男が殺されたが、それはボーダー・ラフィアンズの者だった。5月22日合衆国議会で起こった反奴隷制派の上院議員チャールズ・サムナーに対するプレストン・ブルックスの鞭打ち事件もブラウンの怒りを掻き立てた。これらの暴力行為の後に奴隷制度擁護派の新聞で賞賛の声が続いた。「無資格の主権者」のB・F・ストリングフェローのような記者は、奴隷制度擁護派が「北部の侵略を撥ね返し、カンザスを奴隷州にすることに決めた。我々の川は犠牲者の血で覆われ、奴隷制度廃止論者の死骸が領土内に溢れて病気の元になるだろうが、我々の目的を阻止させはしない」と宣言した[8]。ブラウンは、奴隷制度擁護派の暴力にも怒りを覚えたが、反奴隷制度派や自由州の開拓者の弱く臆病な反応を見たことによっても怒りを感じ、「臆病者、あるいはそれ以上だ」と表現した。[9]

伝記作者のルイズ・デカロ・ジュニアは、ブラウンの最愛の父親オーウェンが1856年5月8日に死に、ジョン・ブラウンとその家族がほとんど同時に父の死の知らせを受け取ったことを示す書簡があることを指摘している。ブラウンがその息子達や近くにいる自由州の開拓者達の快適な生活のために抱いた真の関心は、特にローレンスの破壊以後、奴隷制度擁護派の全面的な暴力活動を示す予兆が送られているように思えたことだった。ブラウンは近くに宿営している「ラフィアンズ」を調査し、ブラウンの家族が攻撃の標的にされていることを知り、さらにそのラフィアンズと結託し支援している奴隷制度擁護派の隣人に関する信頼に足る情報も掴んだ。奴隷制度擁護派の男達は必ずしも奴隷を所有していないが、ドイル家の者(犠牲者のうちの3人)の場合はカンザスに入植する前に奴隷狩りを行っていた。サーモン・ブラウンによれば、ドイル家の者達が拘束された時、マハラ・ドイルはその夫の「いたずら」がこの玄関先での攻撃をもたらしたことを認めた。これはブラウンの攻撃が現実の自分達の生き残りのために行われたことを意味している。

ブラウンは通常、ローレンスやサムナーの件で報復をしようとし、自由州の者達が暴力的な仕返しもできるのだということを示して奴隷制度擁護派を脅そうとしたと考えられている。奴隷制度擁護派のテロリスト達が自由州の者達をどの程度襲おうとしていたかについてははっきりと意見が分かれている。ジョン・ブラウンとその息子達、オリバー、オーウェン、サーモン、フレデリック、および義理の息子のヘンリー・トンプソン、さらに2人の自由州の開拓者達は、危険が迫っているという判断を下した。彼らがこのリスクに対抗するためにカンザスに行ったという者もいるが、ブラウン家の者達は開拓者として入ったのであり、勿論テロリストの脅威に対するような武装はしていなかった。ジョン・ブラウンは好戦的な態度でカンザスに入ったが、1855年に書いた手紙では、当初は自由州側が住民投票で勝てると楽観していたことを示唆している。ブラウンの「銃には銃で戦う」ことと「奴隷制度擁護派の心に恐怖を与える」という決断は、奴隷制度擁護派のテロリズムという現実によってのみ固められた。ブラウンの家族の安全を守るという考えは最優先であった。ブラウンの行動は他の自由州の男達がブラウンとは共に行動しない、殺人行動に加担しないと選択したことで、急かされることになった。ブラウンの好戦的ではない息子達、ジョン・ジュニアとジェイソンは父や兄弟の刀を研いだが、家に残る選択をした。
ポタワトミーの殺人

1856年5月24日午後10時以降のある時点で、ジョン・ブラウン達は奴隷制度擁護派の開拓者5名(ジェイムズ・ドイル、ウィリアム・ドイル、ドゥルーリー・ドイル、アレン・ウィルキンソン、およびウィリアム・シャーマン)をポタワトミー・クリーク側の小屋から連れ出し、幅広の刀で叩き切った。ブラウンは後に殺人には加わらなかったと主張したが、なんと言おうと殺人は認めた。ブラウンの息子達も攻撃の時にいなかったが、ポタワトミーの他の奴隷制度擁護派の者達に殴られた。
パルミラとオサワトミー

ヘンリー・ペイトに率いられたミズーリ州の部隊がジョン・ジュニアとジェイソンを捕まえ、ブラウン家の家屋を破壊し、後にはローレンスの町の破壊に参加した。6月2日、ジョン・ブラウン、その追随者9人および20名の土地の者達が、ペイトの部隊による攻撃からパルミラの自由州開拓地をうまく守った。ペイトとその部隊22名が捕虜になった[10]。この捕獲後にブラウンの宿営地に連れて行かれ、ブラウンが見付けた食料を受け取った。ブラウンはペイトとその部隊を解放する替わりに、ブラウンの2人の息子を解放することを約束させる協定書にペイトを強いて署名させた。ブラウンはエドウィン・サムナー大佐の元にペイトを解放したが、ブラウンの息子達の解放が9月まで引き延ばされたことを知って怒った。

8月、ジョン・W・リード少将指揮下のミズーリ州部隊300名以上がカンザスに入ってきてオサワトミーに向かい、自由州開拓地の破壊を目論み、続いてトピカとローレンスに行軍した[11]

1856年8月30日の朝、ミズーリ州部隊は、ポタワトミーの郊外でブラウンの息子フレデリックと隣人のデイビッド・ガリソンを銃で殺害した。ブラウンは数の上で7対1と劣勢であったが、その配下の38名を道路沿いの自然の要害の陰に隠れさせた。そこからの攻撃で少なくともリードの部隊員20名を殺害し、40名に傷を負わせた[12]。リードは部隊を再編し、馬を降りて森の中に入るように命じた。ブラウンの部隊は分散してメルダジーン川を越えて逃亡した。


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