ジョン・フランクリン
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レイは必ずしもフランクリン隊を捜していたわけではなく、むしろハドソン湾会社の代表としてブーシア半島を探検していたのだが、この旅の途上でレイはイヌイットからバック河口近くで35?40人ぐらいの白人集団が餓えて死んだという話を聞く。イヌイットはさらに、フランクリンや部下たちの持ち物と確認できる数多くの遺品を示した。フランクリン隊の隊員が残したメモ。1847年夏および1848年春の日付の記述がある。

フランクリン夫人はフランシス・レオポルド・マクリントックに新たに捜索隊を任せ、レイの報告を調査させた。1859年夏、マクリントック隊はキングウィリアム島で、ケアンの中からフランクリンの死亡日付が記されたメモを発見する。このメモは1847年5月24日および1848年4月25日付けの記載があるもので、1847年に記載された部分には(ビーチー島に葬られた3人を除き)全員無事である記述("All well")がある。ところが、のちフランクリン隊の副指揮官に追記された1848年の記載においては、氷に閉じこめられた船の中で船員が多数死亡し、フランクリンも1847年6月11日に死亡、105名の生存者は船を棄ててバック川(英語版)を目指し南下したことを伝えている。マクリントックはさらにいくつかの遺体、驚くべき量の廃棄された装備品を見つけ、イヌイットから探検隊の悲惨な最期についてさらに詳しく聞いた。

1869年には、チャールズ・フランシス・ホールがキングウィリアム島のイヌイットに広く聞き取りを行った。イヌイットが語ったところによると、島南部のテラー湾の砂地にテントが張ったままの宿営跡があり、骨周りの腱を除いて全く肉のない多数の骸骨が見つかった。ノコギリで骨を切断した跡や穴の開けられた頭蓋骨があったという。本や文書類も多くあったが、イヌイットが子供の玩具として持って帰り、破り捨てられたため失われたという。

また、宿営地の近くには一艘の舟が見つかり、肋材や板材のほかにこちらにも多数の骸骨があったという。(ホールは骸骨の手に握られていたという錆びたナイフを見せられた。)[1]フランクリンの失われた航海(Franklin's lost expedition, 1845年- - 1848年)の推定ルート。1845年夏、グリーンランドのディスコ湾(5)からビーチー島に向かい、コーンウォリス島(1)を周回した。翌1846年夏、プリンスオブウェールズ島(2)とサマーセット島(3)の間のピール海峡を下ってブーシア半島(4)の西へ出て、キングウィリアム島(緑色)近くに至ったが氷に閉じ込められた。

フランクリン隊の遭難には、いくつかの事実が寄与している。まずフランクリンは保守的な教養を持ち、不適切な状況でむだな儀式的な慣行を行うことがあった。例えば、彼と部下たちは銀の食器類や水晶栓つきのガラス瓶、その他探検に無関係な個人的な所有物を多く持ち込んでおり、船を放棄した後にさえそれらの重い備品の多くを携えて持ち運ぼうとした。また彼らは生存手段を先住民に学ぶことを良しとしなかったか、あるいはできなかった。さらに彼らの遠征は海軍によるもので、船員の誰も厚いブーツや防寒服を持っていないなど、陸上徒歩を前提にした装備ではなかったこともある。

一行の船は1846年の夏に氷が溶けるまで航路を凍結していた異常な寒さのために、二冬の間氷に閉ざされてしまった。缶詰食料の密封に用いられたはんだや、船にあった真水供給装置の鉛中毒からくる精神的影響によって、隊員の士気と結束は崩れたとされる。これは1980年代になってアルバータ大学のオーウェン・ビーティ博士の研究によって、探検隊員の遺体の骨格および軟部組織から鉛が認められたことで明らかになっている。また最初の2年で壊血病を予防するレモンジュースがその機能を失い、そのため彼らは出血障害で衰弱していった。イヌイットの目撃証言によれば、隊員たちは壊血病に典型的な黒ずんだ唇、皮膚の爛れを発症していた。

乗組員のうち数人の骨格には、切断の形跡があった。これは過酷を極める状況下で、人肉食に頼らざるをえなかったことを示している。つまるところ杜撰な計画、悪天候、有害な食料、そして最終的には餓えなど複合的な原因によって彼らは死んでいったようだ。ロンドンに建つフランクリンの銅像

しかしながらその後の長きに渡って王朝時代のメディアは、フランクリンを隊員を率いて北西航路を探求した英雄として描写し続けた。フランクリン夫人の働きかけもあって失望させるような死に際の話は抑えられ、フランクリンは英雄にまつり上げられた。彼の故郷に建てられた銅像には「ジョン・フランクリン卿 - 北西航路の発見者」という碑文が刻まれ、ロンドンのアセニアムのそばとタスマニアにも同様の碑文とともにフランクリンの像が据えられた。また、現在のオーストラリア・ドルが導入される以前に流通していたオーストラリア・ポンドの5ポンド紙幣にはフランクリンの肖像が使用されていた。

一方でフランクリンが英雄視されたのは彼の多くの業績によるものという見方もあり、彼が北西航路を完遂しようという勇敢な試みのために死んでいったという事実は、公における彼の立場を守ることになった。人肉食の可能性を含めた探検隊の末路もその日の新聞紙上で抑制されることなく広く報じられ、議論の対象にもなっている。フランクリンの最後の探検には未だ多くの謎が残されている。

この顛末を基に、米国作家ダン・シモンズが『ザ・テラー 極北の恐普B(The Terror 2007)』という冒険ホラー小説を上梓している。
不明艦の発見

2008年以降、カナダ政府は行方不明になった英海軍艦船「HMSエレバス」および「HMSテラー」の発見に向け大規模な北極海の海底調査活動を6回に渡って実施していたが、2014年9月7日にそのうちの1隻をビクトリア海峡(英語版)の海底で発見したことをカナダ首相スティーヴン・ハーパーが9日に発表した[2]。その後の調査で発見された船はHMSエレバスであることが分かった[3]。2016年に、HMSテラーの残骸がキング・ウィリアム島にある同名のテラー湾で発見されている[4]
評価

植村直己はその著書の中で、「フランクリンの大遭難」はフランクリンらが現地のエスキモーが有する狩りや生活の知恵に学ばず、西欧的な生活流儀に固執した故に自ら招いた惨事であるとして批判している。
参考文献

NOVA
- Arctic Passage Part 1 - Prisoners Of The Ice (TV documentary)

Frozen In Time: The Fate of the Franklin Expedition, Owen Beattie and John Geiger

The Arctic Grail, Pierre Berton

Deadly Winter, Martyn Beardsley

The Royal Navy in Polar Exploration, Frobisher to Ross, E C Coleman 2006 ISBN 0-7524-3660-0

The Royal Navy in Polar Exploration, Franklin to Scott, E C Coleman 2006

British polar exploration and research : a historical and medallic record with biographies, 1818-1999 , Neville W. Poulsom & J. A. L. Myres (London: Savannah 2000)

Franklin Saga Deaths: A Mystery Solved? National Geographic Magazine, Vol 178, No 3, Sep 1990


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