ジョン・フォード
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ジョン・フォード(John Ford、1894年2月1日 - 1973年8月31日)は、アメリカ合衆国映画監督脚本家映画プロデューサー俳優である。1910年代から1960年代にかけての50年以上のキャリアで140本を超える作品を監督し、同時代の最も重要で影響力のある映画監督のひとりとして広く認められている[1]。『駅馬車』(1939年)や『捜索者』(1956年)などの西部劇や、『静かなる男』(1952年)などの自身のルーツのアイリッシュを題材にした作品、『怒りの葡萄』(1940年)などの20世紀アメリカ文学の映画化で知られる。アカデミー賞では監督賞を史上最多の4回受賞している。
略歴・人物
生い立ち

1894年2月1日アメリカメイン州ケープ・エリザベスに、アイルランド移民の子として生まれる。13人兄弟の末っ子であった。本名はジョン・マーティン・フィーニーだが、後年しばしば本名のゲール語形であるショーン・アロイシャス・オフィーニーあるいはオファーナ[注釈 1]を名乗った。
映画界へ

高校卒業後の1914年、俳優兼監督として活躍していた兄のフランシスを頼って、フランシスの働くユニバーサル・ピクチャーズに入社。小道具係やスタントマンなどとして働き始める。やがて俳優となり、ジャック・フォード名義で、フランシスが監督・主演の『名金』やD・W・グリフィスの『國民の創生』などに出演した。

1917年、二日酔いで仕事が出来なくなった兄のフランシスに代わって助監督を務めるが、フランシスの演出シーンをユニヴァーサルの重役カール・レムリが気に入り、監督に昇進。同年に『颱風』で監督デビューを果たした。
初期

初期の頃は、低予算の西部劇専門の映画監督として活躍し、ハリー・ケリー主演の映画を26本手がける。1921年にフォックス社(後の20世紀フォックス)に移籍。1923年からジョン・フォードと改名し、翌1924年には大陸横断鉄道の建設を描いた大作『アイアン・ホース』で大きな評価を得て、一級監督となった。

1927年ドイツベルリンを訪れ、F・W・ムルナウに直接映画技法を学んだ。1928年にはドイツ表現主義から影響を受けた『4人の息子』を発表している。後の作品にも表現主義から影響を受けたとされる照明・撮影技術が使われている。
アカデミー賞受賞駅馬車』を撮影中のジョン・フォード(右)。左はカメラマンのバート・グレノン

1930年代に入ると、西部劇はB級活劇ものとして衰退していき、ジョン・フォードもシリアスなドラマを手掛けることが多くなる。1935年に発表したアイルランド独立運動に命を賭けた男たちを描いた『男の敵』は、自身初のアカデミー監督賞に選ばれた。

1939年ヘンリー・フォンダを起用した『モホークの太鼓』(フォードにとっては初のテクニカラーである)と『若き日のリンカン』を次々に発表。そして同年、西部劇の金字塔『駅馬車』を発表。低予算映画ながらスピーディーなアクション・シーンと馬車に乗り合わせた登場人物たちの群像劇が見事に観客の心を掴んで大ヒットを記録した。また、B級映画俳優だったジョン・ウェインをこの作品で主演に起用し、以降フォード作品に数多く主演することになる。

その後、ジョン・スタインベックピュリツァー賞作品を映画化した『怒りの葡萄』や19世紀イギリス・ウェールズ地方の炭鉱地帯を舞台にした家庭劇『わが谷は緑なりき』を発表。


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