ジョン・ヒューストン
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1948年、ハリウッドに戻ってワーナー・ブラザースのもとで監督した『黄金』と『キー・ラーゴ』が公開される。『黄金』は、その年のワーナー社における最大のヒット作となり、アカデミー監督賞脚色賞を受賞。父親のウォルター・ヒューストンにはアカデミー助演男優賞をもたらした。また、『キー・ラーゴ』ではクレア・トレヴァーアカデミー助演女優賞をもたらしたものの、ワーナー社の勝手な無断編集に激怒し決別するとMGMと契約し、ケイパー映画の草分け的的作品となる『アスファルト・ジャングル』(1950年)を監督した。

1951年には『アフリカの女王』が公開。デビュー作から何度もタッグを組んできたハンフリー・ボガートと初タッグとなるキャサリン・ヘプバーンの共演とあり、映画は大ヒット。ボガートに初のアカデミー主演男優賞をもたらした。しかし、その頃のハリウッドにおける赤狩りに嫌気が指し、翌年にはアイルランドに移住してから『赤い風車』(1952年)を監督し、再び大ヒットを記録した。

1956年、長年映画化を望んでいた『白鯨』が公開。暗いテーマのため興行的には失敗したが、批評家からの評価は高く、後年にはスティーヴン・スピルバーグの『ジョーズ』が公開され、コンセプトが似ていることから再評価されるようになった。1958年の『黒船』では日本でロケを行った。

その後もコンスタントに作品を発表し、西部劇許されざる者』(1960年)ではオードリー・ヘプバーンをヒロイン役で起用、『荒馬と女』(1960年)では本作が遺作となったクラーク・ゲーブルマリリン・モンローを起用して大ヒットを記録した。
俳優としての活動[ソースを編集]

俳優としては壮年期以降、個性的なバイプレイヤーとしていくつかの作品に出演している。1963年の『枢機卿』ではゴールデングローブ賞 助演男優賞を受賞し、アカデミー助演男優賞にノミネートされる。1974年のフィルム・ノワール映画『チャイナタウン』(ロマン・ポランスキー監督)では、ジャック・ニコルソン演じる私立探偵ジェイク・ギテスの前に立ちはだかる下衆で非道なロサンゼルス政界の悪役ノア・クロスを演じ、映画史に残る悪役に仕上げた。他にも自分の監督作品にも出演しており、『天地創造』や『007/カジノ・ロワイヤル』にも出演している。
晩年[ソースを編集]

1975年のショーン・コネリーマイケル・ケイン主演の『王になろうとした男』で再び高い評価を獲得。1985年のブラック・コメディ映画『女と男の名誉』では、娘のアンジェリカ・ヒューストンアカデミー助演女優賞を受賞し、親子三代でオスカー受賞を達成した。また、自身も監督賞にノミネートされ、当時79歳で最高齢記録を樹立した。

晩年、遺作となる『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』(1987年)を息子トニー・ヒューストンによる脚本で監督。長年ヘビースモーカーであったために当時は既に健康的にも芳しくはなく、常に酸素吸入器を付けながらの撮影だった。撮影終了後の1987年8月28日肺気腫により81歳で他界した。本作は死後に公開された。
作風[ソースを編集]

男性的で骨太なタッチの作品が多く、また、目的を持って行動する主人公たちが徒労の果てに挫折していくというストーリーをしばしば取り上げることも特徴であり、欲望に目が眩んで自滅する黄金探しの山師を描いた『黄金』や、一攫千金を夢見る宝石強盗団の顛末を描いた『アスファルト・ジャングル』、との闘いを通して自然との無謀な争いを描いた『白鯨』、王になるという夢を果たそうと冒険に出る男達を描いた『王になろうとした男』、愛と名誉と狭間で苦悩するマフィアの一員を描いた『女と男の名誉』といった作品が最もたる例である。

また、恋愛物では戦争中における自然の極地を舞台にすることが多く、ジャングルが舞台である『アフリカの女王』や、無人島が舞台となっている『白い砂』がある。
私生活[ソースを編集]

生涯で5回結婚している。そして1度の死別を除いた4回はすべて離婚した。「人間、5回も結婚すべきでない」と晩年に反省の弁を残している。2人目までは映画界と無縁の女性だが、3人目は女優イヴリン・キース(『風と共に去りぬ』でスカーレット・オハラの妹役を演じた。イヴリンの名は偶然にも『チャイナタウン』でフェイ・ダナウェイが演じたノア・クロスの娘イヴリン・モウレーと同じ)。4人目がバレリーナ、リッキー・ソマ。リッキーの事故死後、5人目の妻はメキシコ人女性。70歳を過ぎても、自分の子供のような年齢のメキシコ人女性と同棲していた。リッキー・ソマとの間の娘アンジェリカ・ヒューストン、俳優ゾーイ・サリスとの子ダニー・ヒューストンは俳優となった。

また、豪快な性格であり、『アフリカの女王』ではロケーション中に映画撮影を放り出して狩猟に没頭してしまうなどの奇想天外なエピソードを多く残し、後年にはキャサリン・ヘプバーンに自伝で批判された上に、クリント・イーストウッドが本作でのエピソードを映画化するほどであった。

自身のデビュー作から何度もタッグを組んできたハンフリー・ボガートとは生涯の親友であり、ボガートの葬式では弔辞を読んだ。

『白鯨』に神父役で出演したオーソン・ウェルズとも監督デビューが同年ということで仲も良く、自身の晩年にはウェルズの監督作品である『風の向こうへ』に今度は自分が役者として出演したが、ウェルズの死により未完のまま終わってしまった。

脚本家としてデビューした頃、ハリウッドのサンセット大通りを車で走行中に人身事故を起こして相手方を死亡させてしまったことがある。裁判では無罪となったものの、ショックでロンドンパリに引っ越し、放浪の暮らしをしていた時期があった。

シャトー・ムートンのラベルデザインを手掛けた。ヴィンテージは1982年。
その他[ソースを編集]

日本では、1987年サントリーオールドの広告に起用されたことがある。くしくも本人が他界した年に、都内並びに大阪市内の鉄道の駅構内に掲載されている[2]
フィルモグラフィー[ソースを編集]
監督作品[ソースを編集]

マルタの鷹 The Maltese Falcon(1941)

パナマの死角 Across the Pacific(1942)※日本未公開

アリューシャン列島からの報告 Report from the Aleutians(1943)※ドキュメンタリー映画

サン・ピエトロの戦い The Battle of San Pietro(1945)※ドキュメンタリー映画

光あれ Let There Be Light(1946)※ドキュメンタリー映画

黄金 The Treasure of the Sierra Madre(1948)

キー・ラーゴ Key Largo(1948)

アスファルト・ジャングル The Asphalt Jungle(1950)


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