ジョン・バカン
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活躍が認められて、1917年にバカンは初代ビーヴァブルック男爵マックス・エイトケンのもと、情報部長に任用され(この仕事についてバカン自身は「経験した中で最も困難な任務」[8]と述べている)、同時にチャールズ・マスターマン(Charles Masterman)を補佐して1915年2月に始まった月刊の戦史(後に24巻立てのNelson's History of the Warとして発行された)を刊行した。ただし指揮官たちとの密接な関係のため、バカンは戦争中陸軍の指揮について批判的になることは難しかった[9]

戦争終結とともに、バカンはスリラーや小説を書くことと共に歴史的な事物について書くことに関心を転じた。1920年代半ばまで、彼はエルズフィールド(Elsfield)に住み、スコットランド歴史協会の会長やスコットランド国立図書館理事の職[6]を歴任した。また多くの大学と関係を深めてもいる。例えばロバート・グレーヴズは近傍のアイリプに住んでいたが、バカンの推薦によって新設されたカイロ大学で教職に就いたことを述べている。また1927年の補欠選挙ではバカンはスコットランド大学合同選挙区から統一党の下院議員に選出された。政治的には連合王国を支持する伝統のなかで、イギリス帝国内でのスコットランドの国家としての向上を考えていた。議会演説のなかで次のように述べている。「私はすべてのスコットランド人がスコットランド民族主義者であるはずだと信じております。もしスコットランド議会が必要だということが証明されるならば…(中略)…スコットランド人は必ずやそれを支えるでしょう。」[10]スコットランドにおける大恐慌の影響と潜在的に高い度合いで起きているスコットランドからの移民流出も同じ演説のなかに反映されている。「我々はギリシャ人のように、住むところではどこでも強勢を誇り、繁栄を謳歌しながらその背後に死せるギリシャを抱えることを望んではいません。」[11]彼はまたジョン・モーリーのLife of Gladstoneに大きな影響を受けていることに気付いた。第二次世界大戦が始まって数月の頃にそれを読んだのである。彼はグラッドストンが人々に物質主義や自己満足、権威主義に打ち勝つことを教えていると信じていた。後にハーバート・フィッシャーやステア・ジローン、ギルバート・マレーに宛てた手紙の中で自分が「グラッドストン的な自由主義者になりつつある」ことを述べている[12]。スコットランド統一自由教会が1929年にスコットランド国教会と合同したのち、バカンはオックスフォードの長老派教会とロンドンの聖コロンバ教会両方の長老として活動し続けていた。1933年と1934年にバカンはスコットランド国教会の全国総会におけるジョージ5世の名代に任命されている。1930年以来、バカンはシオニズムに共感し、パレスティナ超党派議員連盟と関係していた[13]。文芸と教育への貢献が認められて、1932年1月1日に彼はコンパニオン・オブ・オナー勲章を国王からの私的な贈り物として授与された[14]

1935年になるとバカンの作品は、話は大幅に変更されたものの、アルフレッド・ヒッチコックの『三十九夜』としてロバート・ドーナットがリチャード・ハネイ役にあてられて映画化された。同年5月23日にはバカンは聖マイケル・聖ジョージ勲章を授与されることになり[15]、さらに6月1日にはジョージ5世からオックスフォード州エルズフィールドのトゥイーズミュア男爵に叙され貴族に列したが、これはカナダ総督への任命に先立って行われた。カナダ首相リチャード・ベッドフォード・ベネットが総督の人選について野党自由党の指導者ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キングに意見を求めたとき、マッケンジー・キングは国王がバカンに平民のまま総督職を務めさせることを薦めた[16]ものの、最終的にジョージ5世は貴族によって自身が代理されることを主張し押し切った。バカンの名前は早くから総督候補としてマッケンジー・キングから国王に推挙されていた。すでに1924年にバカン夫妻は当時カナダ首相であったマッケンジー・キングの客としてキングズミアの別荘を訪れており、キングはバカンについて深い感銘を受けて絶賛している。翌年のある夕方にキングは総督の初代ヴィミー・オブ・ビング子爵ジュリアン・ビングにバカンが後任として適当であることを伝え、バカンとは友人であったビング卿自身も同意していた。こうした意向は時を経て英国政府に伝えられ、バカン自身も打診を受けているが、この時点では彼は引き受けたがらなかった。というのもバイングは1926年に起きた国制危機についてバカンに書き送っており、同時にマッケンジー・キングをけなしていたからである[17]
カナダ総督

1935年8月10日にカナダ首相府は国王がバカンを総督の後任とするベネットの推薦を勅書によって承認したことを発表した。バカンはカナダに出発し、11月2日の式典でケベック州議会議事堂の赤の広間で宣誓した。バカンはウェストミンスター憲章が施行されて以来、初めてのカナダ総督であり、カナダ枢密院において国王の名のもとに裁可する最初の人物となった。バカンは総督在任中も執筆を続けていたが、同時に総督の職務を重要なものだと考えており、着任当初からカナダ全土をくまなく訪れることを目標としていた[3]。その中には総督としては初めて北極圏地方を訪れることも含まれていた。彼は自分の職務について「総督というものは特別な地位の一つである。それというのもカナダ全土を知り、あらゆる住民を知ることがその職務であるからだ」と述べている。バカンはまた、大恐慌とそれが人口構成に与えた問題にもかかわらず、カナダ人独自のアイデンティティと国民の統合を奨励した[6]。全てのカナダ人が彼の考え方に理解を示したわけではない。1937年にモントリオールで演説した際にはイギリス帝国の一体性を重んじる人々の怒りを買った。「カナダ人がまず忠誠を示すべき相手はイギリス連邦ではありません。カナダでありカナダ国王であるのです。」[18]この演説はモントリオール・ガゼット紙に「不忠」と書かれてしまった[19]。バカンはエスニック・グループが「個性を保持し、各々がカナダ国民としての特質に寄与するべき」であり「最強の国家は異なる人種集団から成り立っているもの」だとする考え方を再三唱えていた[20]


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