しかし、ゲーム理論の研究は着想としては興味深いものの、数学の博士号を得るには数学的に貧弱なものであったため、ゲーム理論に関する研究が博士論文として認められなかった場合に備え、ナッシュは当時から微分幾何学のリーマン多様体への埋め込み問題の研究にも着手していた。ゲーム理論の研究が一通りまとまった博士課程修了後に、マサチューセッツ工科大学やランド研究所でこちらの研究に本格的に取り組み、以下の重要な論文を残している。
"Real algebraic manifolds"(1952年、数学雑誌Annals of Mathematicsにて発表)
"C1-isometric imbeddings"(1954年、数学雑誌Annals of Mathematicsにて発表)
"The imbedding problem for Riemannian manifolds"(1956年、数学雑誌Annals of Mathematicsにて発表)
"Analyticity of the solutions of implicit function problem with analytic data"(1966年、数学雑誌Annals of Mathematicsにて発表)
実際、ナッシュ自身が「(ゲーム理論は)私の仕事の中で特につまらないもの」と評しているように[5]、ナッシュの数学者としての評価を高めたのはゲーム理論に関する仕事ではなく、このリーマン多様体に関する仕事であった[2]。
1953年、当時の恋人であったエレノア(Eleanor Stier)との間に子供が生まれるが、結婚には至らなかった。 1954年にサンタモニカで逮捕されたこと(公衆トイレでの卑猥な行為)が原因でランド研究所でのポストを失った[6]。 1957年2月にエルサルバドル出身でMITの学生であったアリシア(Alicia Lopez-Harrison de Larde)と結婚する[3]。 1958年、アリシアが妊娠し、また29歳の若さでMITの終身職員の権利を得る。しかし、この頃から異常な言動が目立ち始め、1959年に病院で検査を受けた結果、現在で言う統合失調症であると診断される[3]。この頃、ナッシュは数学界最大の難問とも言われるリーマン予想の証明に専心しており、そのあまりの困難さが彼の精神をむしばむ要因となったとする見解を示す者もいる[誰?]。 1959年、MIT職員を辞職し、ヨーロッパとアメリカを放浪する旅に出る。1960年にプリンストン大学近郊に戻り、病気の治療で入退院を繰り返しながらも数学の研究を再開した[注 1]。この頃の病状は非常に重く、大学構内を無為に徘徊することもあり、「ファインホールのファントム」等と言われることもあった[7]。 1963年にアリシアと離婚。しかし、アリシアは1970年にナッシュを夫としてではなく、同居人の形で引き取り、彼の闘病生活を支えることを決心した。この頃からナッシュの病状は少しずつ回復のきざしを見せ始める[2]。 1978年にはカルトン・レンケ
闘病生活・快復
1980年代後半には統合失調症から快復した。
晩年・最期2011年
1990年代以降は形式上研究者として引退していたが、プリンストン大学の数学科の校舎にはナッシュの研究室があり、研究を続けていた。
1994年にゲーム理論に関する功績によりゼルテン、ハーサニとともにノーベル経済学賞を受賞。1999年にマイケル・クランドール(英語版)とともにスティール賞を受賞[8]。この頃にはアリシアとの関係も元の状態に戻っており、2001年に再婚した。
世界中の大学や学会で講演、指導を行い、1999年にカーネギーメロン大学から名誉博士号(科学技術)を、2003年にフェデリコ2世・ナポリ大学から名誉博士号(経済学)を[9]、2007年にアントワープ大学(英語版)から名誉博士号(経済学)を、2011年に香港城市大学から名誉博士号(科学)を[10]、それぞれ贈られている。
2015年5月19日にリーマン多様体の埋め込み問題に関する功績によりニーレンバーグとともにアーベル賞を受賞。オスロで行われた授賞式からの帰路、5月23日にニュージャージー州でアリシアと共に乗っていたタクシーが事故を起こし、夫婦は共に車外に投げ出され死亡した。ナッシュは86歳、アリシアは82歳であった[1]。