ジョン・クィンシー・アダムズ
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1779年にアダムズは日記を書き始める。その日記は1848年に死去するまで続けられた[4]

アダムズは最初に父親がフィラデルフィアの第2回大陸会議から母親に向けて書いた手紙から、アメリカ独立宣言を学んだ。

アダムズの青年期は父親の洋行への同伴に費やされた。ジョン・アダムズはアメリカ政府の使節として1778年から79年までフランスに、80年から82年までオランダに赴き、若きアダムズはこれらの旅行に父親と同伴した。

アダムズはヨーロッパに於いてライデン大学などで教育を受けた。14歳からおよそ3年間、彼はロシアからの国家承認を得るための使節としてサンクトペテルブルクに赴任するフランシス・ダナに同伴した。フィンランドスウェーデンデンマークを訪問し、1804年にはシレジアに関する旅行記を発表した[5]

海外での数年間でアダムズはフランス語オランダ語を習得し、ドイツ語などその他のヨーロッパ言語への親しみを得た。 彼はハーバード・カレッジに入学し、1788年にファイ・ベータ・カッパのメンバーとして卒業した[6]。ハーバード・カレッジのアダムズ・ハウスはアダムズと彼の父親を記念して命名された。

アダムズはニューベリーポートでテオフィラス・パーソンズの元で見習い弁護士となる。1791年に法曹界に認められ、ボストンで弁護士を開業した。
初期の経歴

1794年、ジョージ・ワシントン大統領は26歳のアダムズをオランダ担当大臣に任命した。1796年にはポルトガル担当大臣に任命し、続いてベルリン派遣使節団員へと昇進した。

父親が1797年に大統領に就任すると、ワシントンの勧めでアダムズはプロシア担当大臣に任命された。アダムズはプロシアの外務大臣カール=ウィルヘルム・フィンク・フォン・フィンケンシュタインと交渉し、自由プロシア=アメリカ友好通商条約の更新に署名した。彼は1801年まで同職を務めた。

海外での勤務の間に、アダムズはアメリカ人商人の娘であるルイーザ・キャサリン・ジョンソンと、ロンドンのオール・ハローズ・バイ・ザ・タワーで結婚した。アダムズは2017年にスロベニア出身の妻を持つドナルド・トランプが大統領に就任するまで約190年間、外国生まれの女性を妻にした唯一の大統領であった。

アダムズは帰国すると、ボストンで連邦政府の地方裁判所判事によって倒産担当行政官に任命された。 しかしながら、ジェファーソン大統領はこの任命を無効とした。アダムズは再び弁護士として腕を振るったが、まもなく政界に身を投じた。1802年4月にマサチューセッツ州上院議会議員に選出され、同じ年の11月に連邦下院議員に連邦党から出馬したものの落選した[7]

その後間もなくマサチューセッツ州議会はアダムズを連邦党員として上院議員に選出し、1803年3月4日から同職を務める。上院議員としてアダムズはルイジアナ買収および1807年の禁輸法を支持したが、この行動でマサチューセッツ州の連邦党員は彼の支持を取りやめることとなった。連邦党が実権を握るマサチューセッツ立法府は後任を半年早く選出し、1808年6月3日にアダムズとの交代を選択した。6月8日にアダムズは同職を辞任し、連邦党と袂を分かち民主共和党に入党した[8]。上院議員であった間に、アダムズは修辞学の教授としてハーバード大学で教鞭を執った[9]

新大統領のジェームズ・マディソンは、1809年にアダムズをロシア担当大臣に任命した(フランシス・ダナとウィリアム・ショートがその候補に指名されていたが、両名ともサンクトペテルブルクに信任状を提示できなかった。)。アダムズは妻のルイーザと共に任期の大半をサンクトペテルブルクで過ごした。ルイーザは公式の外交官ではなかったが、外交官の妻として重要な役割を果たした。彼女は夫が魅力不足であったのを埋め合わせて皇帝のお気に入りとなり、アメリカの外交任務における必須の部分となった[10]。1812年にアダムズはナポレオンのロシア侵攻と、その悲惨な後退に関する報告をワシントンに持ち帰った。1814年にアダムズはロシアから呼び戻され、米英戦争の停戦交渉の責任者を命じられた。この交渉の結果、ガン条約が結ばれ停戦が成立した。また1815年から1817年までイギリス担当大臣を務めた。その職は父親のジョン・アダムズが最初に就いたものであった[8]
国務長官

アダムズは1817年から1825年までモンロー政権で国務長官を務め、その任期はフロリダ獲得の手段となった。彼の意見は通常モンローによって支持された。国務長官として彼はアダムズ=オニス条約でスペインと交渉し、モンロー・ドクトリンを起草することでアメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱した。アダムズはイギリスと奴隷売買に対しての共同パトロールの交渉を行ったが、それは上院が希薄化し、結局は拒絶された。

1821年の独立記念日にアダムズは、中南米諸国によるスペインからの独立運動に対するアメリカ合衆国の支援を支持した人々に応じて、アメリカ合衆国の政策は精神的な援助であるというスピーチを行ったが、独立運動に代わっての武力干渉は行わなかった[11]。そして、アメリカは「破壊する怪物を求めて海外には行かない。」と述べた[12]ナポレオン戦争の後、スペインはアメリカにおける植民地の大部分を失った。植民地の多くが反乱を起こし、独立を宣言した。彼らはスペイン船を攻撃するための私掠船をアメリカの港を利用して整備し、その実行はヘンリー・クレイによって守られた。クレイはモンローとアダムズを用心深い日和見主義者として批難した。

フロリダは依然としてスペイン領であったが、スペインの影響は小さく黒人逃亡奴隷インディアンの避難所となった。スペインはこれに関与していなかったものの、モンローはアンドリュー・ジャクソン将軍を派遣した。ジャクソンはセミノール族大量虐殺して南に追いやり、彼らに武器を供給していた二名のイギリス人商人を処刑、スペイン知事を追放してアメリカ軍守備隊を占領のため駐留させた。ジャクソンは自らの行動にワシントンD.C.からの同意があった
1824年の大統領選詳細は「1824年アメリカ合衆国大統領選挙」を参照

1824年の大統領選が近づくと、人々は候補を探し始めた。ニューイングランドの有権者はアダムズの愛国心と政治的手腕を賞賛した。そしてアダムズは主に彼らのサポートを受けて選挙戦に入った。民主共和党の古い幹部会議システムは崩れ、当時の第一政党制も崩れた。そして選挙は地域の支持に基づく自由参加となった。アダムズにはニューイングランドの強い地盤があり、彼の対抗馬はジョン・カルフーンウィリアム・クロウフォード、ヘンリー・クレイとニューオリンズの英雄、アンドリュー・ジャクソンであった。選挙戦でカルフーンは脱落し、クローフォードも体調不良で撤退、他候補への支援に回った。一般投票ではジャクソンが最多数を得票したが、選挙人投票では過半数を獲得することはできなかった。

大統領の選出は下院に預けられ、憲法修正第12条では選挙人選挙の結果で上位3名のみが下院での選挙に出ることができるとされていたため、ジャクソン、アダムズ、クローフォードが候補者となった。クレイは4位で候補にはなれなかったが、彼は下院議長としてかなりの影響力を保持していた。

クレイは個人的にジャクソンを嫌悪しており、彼の経済施策(アメリカン・システム)はアダムズの施策と類似していたため、アダムズの支援に回った。アダムズは1825年2月9日の第1回投票で大統領に選出された。アダムズの勝利はジャクソンに衝撃を与えた。アダムズがクレイを国務長官に指名すると、ジャクソンの支持者は激怒し「不正な取引」として糾弾した。この主張はアダムズの任期の間中喧伝され、1828年の大統領選におけるアダムズ敗北の原因となった。
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