ジョン・クィンシー・アダムズ
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ハーバード大学
配偶者ルイーザ・アダムズ
子女ジョージ・ワシントン・アダムズ
ジョン・アダムズ2世
チャールズ・フランシス・アダムズ・シニア
ルイーザ・キャサリン・アダムズ
署名

ジョン・クインジー・アダムズ(英語: John Quincy Adams [d??n ?kw?nzi ?ad?mz] ( 音声ファイル), 1767年7月11日 - 1848年2月23日)は、アメリカ合衆国政治家。第6代アメリカ合衆国大統領を務めた。父親は第2代アメリカ合衆国大統領を務めたジョン・アダムズアダムズ政治一家の2代目。アビゲイル・アダムズは母、ファーストレディを務めたルイーザ・アダムズは妻、チャールズ・フランシス・アダムズ・シニアは息子である。
概要

外交官として各国に赴き、上下両院で議員を務めた。所属政党は連邦党民主共和党国民共和党であり、後には反メイソン党ホイッグ党にも所属した。民主共和党所属としては最後の大統領である。第2代大統領ジョン・アダムズの息子であり、最初の親子二代の大統領(2番目の親子二代の大統領は第41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュと第43代大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュ)。「クィンジー」という名は母方の祖父、ジョン・クィンジー大佐から採られた[1]。大統領として初めて長ズボンを着用している。外交官としてアダムズは多くの国際交渉に臨み、国務長官としてモンロー主義の確立に尽力した。歴史家の多くは彼が米国史上で偉大な外交官の一人であったと見なす[2]

大統領として彼は近代化と教育的な前進に関するプログラムを提案したが、政敵が多数を占める議会によって妨害された。1828年の大統領選挙で再選に失敗し、父のジョン・アダムズと同様に1期のみの任期で終わった大統領となった。アダムズは経済成長にかかる国家の偉大さと強い連邦政府のビジョンを提示したが、その大統領職は政治上の器用さ、人気および支援者のネットワークを欠き、彼の排除を望む政治家との衝突に終わった。
経歴
生い立ち

ジョン・クィンジー・アダムズは1767年、マサチューセッツ州ブレントリー(現在のマサチューセッツ州クインジーの一部)でジョン・アダムズと妻のアビゲイル・アダムズの間に生まれる[3]。1767年、クインジーはブレントリーの「北の管区」であった。クインジーが独立した町になったのは1792年のことで、町はアダムズと同じく、ジョン・クィンジーに因んでクインジーと命名された。ジョン・クインジー・アダムズ生家は現在アダムズ国立歴史公園の一部として公開されている。同地はアビゲイル・アダムズ・ケアンの近くに位置し、アダムズが7歳のときにバンカーヒルの戦いを目撃した場所でもある。

1779年にアダムズは日記を書き始める。その日記は1848年に死去するまで続けられた[4]

アダムズは最初に父親がフィラデルフィアの第2回大陸会議から母親に向けて書いた手紙から、アメリカ独立宣言を学んだ。

アダムズの青年期は父親の洋行への同伴に費やされた。ジョン・アダムズはアメリカ政府の使節として1778年から79年までフランスに、80年から82年までオランダに赴き、若きアダムズはこれらの旅行に父親と同伴した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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