ジョン・カルフーン
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米英戦争が開戦するとイギリス軍は海上封鎖を行い、準備不足であったアメリカにとって戦況は思わしく展開しなかった。幾度かのカナダ侵攻への試みは失敗に終わったものの、カナダ西部を制圧したアメリカ軍は、カナダとアラバマにおける戦いで敵対的なインディアンの部族を退けた。

カルフーンは兵を募り、資金を拠出、ロジスティクスを促進し、通貨を改良して戦争を支援するために商業を規制するよう働きかけた。思わしくない戦況から、彼はジョン・ランドルフダニエル・ウェブスターと言った反戦の立場に立つ議員たちからの議事妨害に打ち勝つため、立法上の努力を倍にしなければならなかった。ナポレオンが追放され、イギリス軍によるニューヨーク侵攻が打ち破られると、1814年のクリスマスには平和が達成された。その知らせがニューオーリンズに届く前に、ニューオーリンズの戦いでイギリス軍が打ち破られ、アンドリュー・ジャクソンは国民的な英雄となった。戦争の間の軍の誤った処置はカルフーンを苦しめた。彼は二度と失敗しないように、陸軍省の強化を決心した[12]
ナショナリスト

戦後にカルフーンとクレイは公共工事のために、ボーナス法案を提案した。将来の戦争を戦うことができる強大な国家を建設するという目標に向けて、カルフーンは高率保護関税、国立銀行、運河や港など内陸部の開発、そして、後に彼自身が拒否した多くの国家主義的な方針を推進した[13]

カルフーンは自らの愛国心を、モンローにミズーリ妥協を承認するように勧めることで表した。そして、それを多くの南部の政治家たちが明確に悪い取引とみなした。彼は奴隷制度問題に関する継続的な運動が合衆国を脅かすと考え、ミズーリに関する論争の終了を望んでいたのであっだ。

ジョン・クィンシー・アダムズは、1821年に以下の様に結論づけた。「カルフーンは公正で率直であり、尊敬すべき原則、明確で迅速な理解力、冷静で泰然自若、大きな哲学的視点、そして情熱的な愛国心を持った男性だ。彼は今までに私が共に行動したことがあるいかなる政治家よりも、とりわけ部分的で党派的な偏見である[14]。」歴史家のチャールズ・ウィルツは同意する。「彼は今日、主にセクショナリズムで知られているが、カルフーンはセクショナリズムの立場を取る当時の偉大な政治的指導者 - ダニエル・ウェブスターより、ヘンリー・クレイより、アダムズ自身よりも後の - 最後の人物であった。[15]

観察者はカルフーンが「下院で最も上品な演説者である…彼のジェスチャーはくつろいで優雅であり、そして、彼のそぶりは説得力があり、そして、言葉は上品である。しかし何よりも彼は、自身を自ら常に理解している主題に密接に限定し、中で聞いている皆を啓発する。彼は政治家が言うべきであるすべてを話す。」と論評した。彼の演説の才能は系統的な自己規律と習慣的な訓練を必要とした。後の批評家は彼のためらいがちな会話と、流暢な演説スタイルとの明らかな対比に着目した。そして、カルフーンが「彼は発言を明瞭、完全にし、すべての音楽が耳にとって心地よく聞こえるように、彼の自然に劣った声をとても慎重に深めていた。」と付け加えた[16]
陸軍長官

1817年ジェームズ・モンロー大統領はカルフーンを陸軍長官に任命した。彼は25年まで同職を務める。カルフーンは「好感情の時代」の間、国家主義者のリーダーとしての役割を続けていた。彼は国家改革の綿密なプログラムを、経済近代化を促進するインフラストラクチャーの整備に提案した。彼の最優先項目は海軍の近代化で、その中には蒸気フリゲートの整備が含まれた。二番目は適切な規模の陸軍の整備であった。そして、非常時の間の更なる準備として、「長く永久的な道」を建設し、工場への「特定の奨励」を行い、戦時の海運業の縮小によって崩壊する関税のように、製品と従属しない内部課税システムの構築を行った。彼は国立銀行、内陸部の開発(港や運河、河川航行)、そして北東部の産業を援助するための保護関税、特に新たなインフラへの出費について語った[17]。彼はしばしば「国家」という言葉を発し、そして彼の意識したねらいは国力と同一視した国家の結束を強化することであった。

戦後の1815年、議会における「古い共和党員」- 連邦政府内で経済に対してジェファーソン主義の考えを持つ - 達は、至る所で陸軍省の活動と財源を減らそうとした。1817年、4名の人物に率いられた嘆かわしい陸軍省は、最終的にカルフーンが長官職を引き受ける前に、陸軍長官の権限を満たすという要求を拒否するように導いた。政治的ライバルであった財務長官のウィリアム・H・クロウフォードも、陸軍長官としてのカルフーンの立場を複雑なものとした。

カルフーンはナポレオン下のフランス軍のように、拡張可能な陸軍を提案した。フランス軍は基本的に6,000名の士官、兵員を保有し、それらは更なる士官や部隊を追加すること無く、11,000名まで拡張することができた。議会はフロリダや西部に対する合衆国の関心が、イギリスやスペインとの戦いにつながる場合に備えて、十分な規模の軍を欲した。しかし、国は1818年のイギリスとの協定および1819年のスペインとのアダムズ=オニス条約で生じた外交結果に納得し、大規模な軍の必要性は消失した。そして、カルフーンは1821年の削減を妨げることができなかった[18]

陸軍長官としてカルフーンは、インディアン問題の対応管理に対する責任があった。熱心な近代化改革の推進者として彼はインディアン部門で集中化と効率化を始めようとした。しかし、議会は彼の改革に応じることができず、または敵意を持って反応した。カルフーンのフラストレーションは議会の怠慢、政治競争、そしてイデオロギーの相違のために高まり、彼は1824年、一方的にインディアン事務局を創設した[19]。彼はインディアン部族との38の条約交渉と批准を監督した。
副大統領職
選挙カルフーン副大統領

カルフーンは元々1824年の大統領選における大統領候補であった。サウスカロライナ州議会の支持を得られなかった彼は、副大統領候補になることとした。選挙はいずれの候補も選挙人団の過半数を得ることができず、結局下院による決議で当選者が確定した。カルフーンは地滑り的勝利で副大統領に選出された。彼はアダムズの下で4年の任期を務め、1828年にはアンドリュー・ジャクソンの伴走候補者として副大統領に再選された。
アダムズ内閣


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