ジョン・ウェイン
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続く35年間で『アパッチ砦』、『黄色いリボン』、『リオ・グランデの砦』、『静かなる男』、『捜索者』、『荒鷲の翼』、『リバティ・バランスを射った男』と言ったフォードの映画20作以上に出演した。

ウェインは多くの戦争映画に出演し「アメリカの英雄」として賞賛されたが、現実には兵役には就かなかった。1940年徴兵が復活し、1945年第二次世界大戦が終了するまでウェインはハリウッドに残って21作の映画に出演した。1941年真珠湾攻撃当時、彼は34歳で徴兵の該当年齢であったが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}家族依存の理由で3-Aに分類され[要校閲]徴兵猶予を申請し受理された。これには国中の興味が集まり、後に2-Aに変更された[要校閲]。

ウェインは西部劇戦争映画に、俳優としての信念を賭けていたため、強く英雄的な役割を多く演じ、逞しく深みのあるヒーロー像を築いていった。生涯出演した154本もの映画のうち、79本は西部劇であった。その一方でコメディ映画やNBCのコメディ『ラフ・イン』にピンクのウサギの着ぐるみで出演するなどユーモアの感覚も持ち合わせていた。
スタースキポール空港に到着したウェイン。1960年11月18日

1948年ハワード・ホークス監督『赤い河』の大ヒットにより、翌年初めてボックス・オフィス・スターの4位にランクインし、名実共にスターの座を獲得。以後20年以上、ベスト10の座を守り続けた。

一方で自他ともに認める愛国主義者である彼は、リベラル思考の観客からは典型的タカ派俳優として非難の対象ともなり、特にベトナム戦争が泥沼化した一時期には人気を落としたが、それに対抗するように製作・監督・主演兼任で映画『グリーン・ベレー』を完成させ、ベトナムで特殊作戦に従事するアメリカ兵を描いた。

多くの作品に出演したウェインは『硫黄島の砂』で主演男優賞、監督した『アラモ』で最優秀作品賞と2度のアカデミー賞ノミネートを受けていた。だが、そんな中ウェインは1964年肺癌を宣告され、片肺を失うも闘病を宣言して俳優活動を続けていった。そして1969年の『勇気ある追跡』で粗野で酒飲みな隻眼の保安官を演じ、ようやく最優秀主演男優賞を受賞した。念願のオスカーを手にしたウェインは人気を取り戻し、以後遺作となった『ラスト・シューティスト』まで精力的に活躍した。

また、俳優時代には俳優組合長も務めていた。
死去

胃癌の悪化で、1979年5月1日よりカリフォルニア州ニューポートビーチカリフォルニア大学ロサンゼルス校医療センターに入院し治療を続けていたが、72歳の誕生日を迎えて17日目の6月11日午後5時35分(日本時間12日午前9時35分)に死去した。ウェインの遺体はカリフォルニア州オレンジ郡のコロナ・デル・マールにあるパシフィック・ビュー・メモリアル・パーク墓地に埋葬された。

日本でも、毎日新聞に『ミスター・アメリカ死す』を始め、大きな見出しで出された。TBSは、6月18日の新聞に追悼広告を掲載。同日夜の番組、月曜ロードショーにて『ブラニガン』(1975年)を放送した[4]。後に日曜洋画劇場では淀川長治の解説と共に三週連続でジョン・ウェイン主演の三作品の映画が放送され追悼された。

死去の際、アメリカ各地では半旗が掲げられた。

入院期間中の6月5日には、当時の大統領であるジミー・カーターがウェインの見舞いに訪れた。現職の大統領が映画俳優を見舞うのは異例のことであった。

死因である癌の原因の一つとして、ネバダ核実験場の100マイル風下で『征服者』の撮影が行われたことを挙げる者もある[5]

葬儀に際し、次期アメリカ大統領となったロナルド・レーガン(ハリウッド俳優出身)は、「実生活でも卓越した巨人だった。体躯、態度、信念に不屈の強さを感じた。思いやりのある誠実な人柄は、利己的なハリウッドではめったにお目にかかれぬ存在だ」と語った。

死の床で密かに記した墓碑銘は、「醜く、強く、確かに」である[6]。が、実際に刻まれた墓碑銘は以下の通りで、1971年PLAYBOY誌でのインタビューでのウェインの言葉である。

「Tomorrow is the most important thing in life. Comes into us at midnight very clean. It's perfect when it arrives and it puts itself in our hands. It hopes we've learned something from yesterday.(明日は人生において最も重要なことだ。真夜中にそれはとてもきれいにやって来る。届いて、それを手に取れたら完璧だ。そして昨日から何かを学ぶことを願いたいものだ。)」

人物

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出典検索?: "ジョン・ウェイン" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年10月)


私生活ではジョゼフィン・アリシア・シーンズ、エスペランザ・バウアー、パイラー・パレットと3回結婚した。ウェインにはジョゼフィンとの間に4人、パイラーとの間に3人の子供がいた。最も有名なのは俳優のパトリック・ウェインである。ウェインの子供のうち1人を除いて全員が映画俳優となった。

フリーメイソンの会員で、マリオン・マクダニエル・ロッジNo.56(Marion McDaniel Lodge No.56)に入会していた[7]

大変な酒豪であり「船を浮かべるほど、日にリットル単位」で飲んでいた。

出演していた西部劇の名作の作劇や演出は石ノ森章太郎原作の仮面ライダーシリーズに影響を与えたことで知られ、映像面では主に折田至が提唱し、ライダーの大ファンであり、仮面ライダーZXこと村雨良主演の漫画仮面ライダーSPIRITSシリーズの作者の村枝賢一もそういった視点からウェイン作品を見返したこともあると発言[8]。また初期ライダーで立花藤兵衛を演じた小林昭二とショッカー首領などラスボス多くを演じた納谷悟朗はウェインのフィックス声優であり、ライダーとウェインは縁が深い[9]。初代ライダーの藤岡弘もウェインのファンである。[10]

死去直前の1979年5月26日、モーリーン・オハラエリザベス・テイラーフランク・シナトラ、マイク・フランクヴィッチ、キャサリン・ヘプバーン、オマール・ブラッドリー将軍夫妻、グレゴリー・ペックロバート・スタックジェームズ・アーネスカーク・ダグラスロバート・アルドリッチジャック・レモンジェームズ・ステュアートなど、多くのハリウッドスターや政界関係者は議会でジョン・ウェインが議会黄金勲章に値すると証言。それが認められて議会黄金勲章を受章した。

1980年6月9日、ジミー・カーター大統領から大統領自由勲章を授与された。

ブルース・ウィリスは演技の手本としている俳優の一人にウェインの名前を挙げている[11]

主な出演作品

公開年邦題
原題役名備考
1929年最敬礼
Salute
ビル
1930年ビッグ・トレイル


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