ジョルジュ・バタイユ
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また、ニーチェ研究者としては、ナチスによるニーチェ思想の濫用を早い段階から非難し、著作においてマルティン・ハイデッガーを「(主体的な)至高性が足りない」「ドイツの教授先生」などと批判していた。
影響

ジャック・デリダ(『エクリチュールと差異』にバタイユ論がある[5])やミシェル・フーコー(『侵犯の思考』というバタイユ論がある[6])への影響は見逃せない。また、フーコーはガリマール版『バタイユ全集』の序文に「Bataille est un des ecrivains les plus importants de son siecle(バタイユは今世紀の最も重要な書き手の一人である)」と記した[7]。バタイユと親交のあったモーリス・ブランショは、文学、思想、政治論などのあらゆる著作のなかでバタイユを参照している。その他、ジャン・ボードリヤールの経済思想は、バタイユの思想を踏襲・継承して展開される[8]。政治哲学者として有名なジョルジョ・アガンベンにおける「動物」と「人間」に関する考察は、バタイユからの影響が強く、アガンベン自身もそれを自覚的にバタイユを扱っている[9]
生涯

1897年、
ビヨムに生まれる。

1908年、ランスのリセに入学するも1913年中退し、エペルネーのコレージュに入学。

1914年、カトリックに入信。

1916年、第一次世界大戦に動員されるが、肺結核を患う。

1918年、パリに移転し、国立古文書学校に入学、1922年に卒業し、国立図書館司書に任命される。

1928年、女優シルヴィア・バタイユ(フランス語版)(シルヴィア・マクレス)と結婚し、『眼球譚』を偽名のロード・オーシュ(小便をする神)名義で出版。

1929年から1930年まで、雑誌『ドキュマン』編集長を務める。

1930年、一女(ローレンス・バタイユ1986年没)を設ける。

1931年から1934年まで、反スターリン主義を掲げる左翼政治集団「民主共産主義サークル」に加入。そこの機関紙で「消費の概念」や「国家の問題」などといった論文を発表し続けた。

1934年、同年にシルヴィア・マクレスと離婚。彼女はのちにジャック・ラカンの妻となる。

1936年、反ナショナリズムを掲げる政治団体、<反撃>を結成するが、半年ほどで解散する。

1937年、私的結社『アセファル(無頭人)』を結成。

1943年から1945年にかけて、後に『無神学大全』と総称される『内的体験』『有罪者』『ニーチェについて』の三作品を出版する。

1946年、月刊書評誌『クリティク』を創刊する。

1951年、ディアーヌ。コチュベ・ド・ボアルネと結婚する。また同年に、オルレアン市立図書館の艦長に就任する。

1955年、頸部動脈硬化症と診断される。

1962年、病状が急速に悪化し、永眠。聖マドレーヌ教会堂裏の墓地に埋葬される。

詳しくは、ミシェル・シュリヤ『G・バタイユ伝』上・下(西谷修ほか訳 河出書房新社、1991年)や酒井健 『バタイユ入門』(筑摩書房、1996年)などを参照。
主要著作
1920年代に書かれた著作・論考・文学作品
[10]


眼球譚』 "Histoire de l'?il"

『W.C.』

1930年代に書かれた著作・論考・文学作品


雑誌『ドキュマン』(1929-1931)所収の各論文(日本語訳『ドキュマン』バタイユ著作集第11巻、2002年(第八版))

『太陽肛門』(1931)

雑誌『社会批評』所収の各論文(ex. 「ヘーゲル弁証法の根底批判」(1932年3月)、「消費の概念」(1933年1月)、「国家の問題」(1933年9月)、「ファシズムの心理構造」(1933年11月、および1934年3月)

『空の青』(1934年) "Le Bleu du ciel"

雑誌『アセファル』所収の論考

『社会学研究会』(聖社会学)で発表した論考(講演含む)

1940年代に書かれた著作・論考・文学作品


『内的体験』「『無神学大全』1」(主要部分は、1941-1942に書かれた。刊行は43年。)L'experience interieur

『マダム・エドワルダ』(1941年12月)

『有罪者』「『無神学大全』2」(1944年出版)

『ニーチェについて――好運への意志』「『無神学大全』3」(1945年2月出版)

『有用なものの限界』(1930年代後半から45年までに書かれた草稿)

『呪われた部分――有用性の限界』「『呪われた部分――普遍経済の試み』1」(45-49年に書かれた。49年に刊行)

『宗教の理論』(推定48年頃に書かれた。生前刊行されず、1974年にガリマールから刊行。)

1950年代に書かれた著作・論考・文学作品


『C神父』(1950年)

『エロティシズムの歴史』「『呪われた部分――普遍経済の試み』2」(51年頃に書かれる。『呪われた部分』の第二巻となるよう予定されていた草稿。)

『ラスコー』(1953年から執筆され、55年に刊行。)

『マネ』(1953年から執筆され、55年に刊行。)

『わが母』(1954-55に書かれた。)

『文学と悪』(1957年ガリマールから出版。)

『エロティシズム』(1957年ミニュィ社から出版。)

1960年代に書かれた著作・論考・文学作品


『エロスの涙』(61年出版)

日本語訳

訳書刊行は、1950年代からが始まり『蠱惑の夜(C神父)』、『エロティシズム』、『文学と悪』などが出版、再刊もあり読まれ続けている。著名な『眼球譚』と『マダム・エドワルダ』は、1967年に生田耕作が初訳出版(度々改訳)。1969年から1973年にかけ二見書房で『ジョルジュ・バタイユ著作集』全15巻が刊行した(新版も再刊)。

新訳版は2020年代現在まで、筑摩書房ちくま学芸文庫河出書房新社河出文庫平凡社平凡社ライブラリー光文社光文社古典新訳文庫で、他にも大学出版局月曜社などで出版されている。

『バタイユ書簡集 一九一七?一九六二年』(岩野卓司ほか全10名訳、水声社、2022年)がある。


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