ジョルジュ・クレマンソー
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これにより社会主義派と決裂した[1]。同年10月にサリアン内閣が総辞職すると、クレマンソーは首相に就任、1909年まで務めた[1]。首相としては軍備拡張や帝国主義政策を推進、イギリスロシア帝国三国協商を締結した。

1917年、第一次世界大戦西部戦線が膠着し、フランス国内に敗戦主義の空気が見られるようになると、レイモン・ポアンカレ大統領に請われ、再度首相に就任し、断固とした戦争政策を強行した。1919年のパリ講和会議では、厳しい対独強硬論、特に多額の賠償支払いを主張し、ヴェルサイユ条約に調印した。

1920年、大統領選挙に敗北して引退。1929年11月24日にパリで死去。88歳没。
エピソードジョルジュ・クレマンソー
ナダールによる撮影)

パリ講和会議に日本の全権特使として出席した西園寺公望は、パリ留学時代をクレマンソーと同じ下宿で過ごした親友であり、その友情は講和会議での日本の立場を保持するのに大いに役立ったと伝えられるが、別の逸話では日本代表による日本語訛りの演説に際し、周りに聞こえるような声で「あのチビは何を言っているのか」と発言したとも伝えられる[2]

中世において、南イタリアの島嶼部などがアラブ人イスラム教徒に支配されていたことから、「イタリア人は半分汚い血が入っている」と公言していた[3]。「汚い血」とは「ヨーロッパ人ではない血」のことであり、アラブを指しており、南イタリア地中海の南にあり、文化的にも北アフリカに近く、肌の色も褐色であることを指している[3]

パリに留学中であった東久邇宮稔彦王とも親友モネから紹介され、親交を深めた。フィリップ・ペタン元帥と共に会見した際に、「アメリカが日本を撃つ用意をしている(オレンジ計画も参照)」との忠言を与えたことから、宮は帰国後、各方面に日米戦争はすべきでないと説いて回ったが、西園寺公望以外は誰も耳を傾ける者はいなかった。日米交渉も大詰めを迎えた1941年(昭和16年)、近衛内閣で陸軍大臣の地位にあった東條英機に、宮はこのクレマンソーの忠言を披露し、陸軍も日米交渉に協力すべきと説いたが、東條は「自分は陸軍大臣として、責任上アメリカの案を飲むわけにはゆかない」と応答し宮の尽力は実らなかった[4]

パリのシャンゼリゼ通りにある地下鉄シャンゼリゼ=クレマンソー駅やフランスの空母クレマンソーは彼の名にちなんでいる。

画家クロード・モネの親友であり、モネの名作『睡蓮』はクレマンソーの提案で描かれた[5]

日本の茶道具香合」に魅せられ、多数を収集、所蔵していた。1976年、カナダモントリオール美術館で、彼の収集品(安土桃山時代から江戸時代末期にかけての香合約3000点)が発見され、現在はクレマンソー・コレクションとして一部が公開されている。

脚注[脚注の使い方]
注釈
出典^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Clemenceau, Georges" . Encyclopadia Britannica (英語). Vol. 6 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 482.


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