ジョニー・ロットン
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小学生時代とは打って変わり、中学生からのライドンは退学処分を受けるほどの不良となり、10代後半はマルコム・マクラーレン(デザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッドが共同経営者)のブティック「Sex」に頻繁に出入りするようになる[5]。この店を溜まり場としていたライドンをリーダー格とする不良グループ“ジョンズ”は、メンバー全員の名がJohnであることから名づけられた。

1975年にマクラーレンがアメリカのバンド、ニューヨーク・ドールズとの小ツアーから帰り、スティーヴ・ジョーンズやポール・クックと共に新たなバンドの結成を模索していたとき、ライドンが現れた。ライドンは「I Hate」とサインペンでなぐり書きされたピンク・フロイドのTシャツを着ており、店内でのオーディションでアリス・クーパーの「エイティーン」を歌った[5]。そしてバンドへ加入、バンド名はセックス・ピストルズに決まる。ピストルズは「アナーキー・イン・ザ・UK」や「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」などの歴史的な曲を発表し、パンクの有名バンドとなった。曲は主に、メンバーのグレン・マトロックが書いていた。

ピストルズの後期、ライドンは、ヘロイン中毒である親友のシド・ヴィシャスの薬物治療の手助けをするが、結局シド・ヴィシャスはヘロインをやめられずまともに演奏できる状態ではなくなった。メンバー間の不仲も頂点に達し、バンドは最悪の状態になり、1978年1月14日、アメリカツアーのサンフランシスコ最終公演を最後にライドンは脱退を表明。ラストライブの最後に「騙された気分はどうだい」と言い放っている[9][10]。脱退表明時には「ロックは死んだ」と宣言した[11]
ピストルズ脱退後PiL再結成ライブ (2011年)

ライドンは1978年4月に、ベースのジャー・ウォブル、ギターのキース・レヴィン、ドラムのジム・ウオーカーと共にパブリック・イメージ・リミテッド(PIL)を結成し、ファースト・アルバム『パブリック・イメージ』(Public Image - First Issue) を発表する[12]。メンバーと音楽性を変遷させながら活動を継続するが、1992年に活動休止となる[12]

1993年、初の自伝『Rotten: No Irish, No Blacks, No Dogs』を発表[13]。日本では1994年に『STILL A PUNK―ジョン・ライドン自伝』のタイトルで発売された[14]

1996年にセックス・ピストルズを再結成。ワールドツアーを開催し、約1か月にも及ぶ来日ツアー公演を行う[15]1997年には初のソロ・アルバム『サイコパス』(Psychos-Path) を発表する[12]

2007年、音楽ゲーム『ギターヒーロー3 レジェンド オブ ロック』に「アナーキー・イン・ザ・U.K.」が採用されたことで、本作のPRを始めるようになりセックス・ピストルズとして久しぶりに活動することになる。2003年以来ライブは行われていなかったが、ピストルズのスタジオ・アルバム『勝手にしやがれ!!』の発売30周年を記念し、11月にイギリス国内で再結成ツアーを行った[16]

2009年にPiLを再結成し、12月にイギリス国内で数回コンサートを行う。2011年にサマーソニックに出演、2012年に20年ぶりとなるアルバム『ディス・イズ・PiL』を発表した[12]

2014年、2作目の自伝となる『Anger Is an Energy: My Life Uncensored』を発表[13]。2016年に『ジョン・ライドン 新自伝 怒りはエナジー』として日本で発売された[17][18]
突然の変貌おどけ顔のライドン (2008年)

2000年代に入ってから積極的にテレビへの出演を重ねるようになり[19]2004年にイギリスITVリアリティ番組『I'm A Celebrity Get Me Out Of Here』に出演。ジャングルでのサバイバルを他の出演者と競い合う番組で[19]、ライドンは尻をカメラにつきだしたり、ダチョウにつつかれたりと醜態をさらすが、この番組によって、皮肉にも一流コメディアンとして世間に再認識されることとなった。その後、イギリス・ディスカバリー・チャンネルにて『john lydon's megabugs』なる昆虫をテーマにしたシリーズ物にメインパーソナリティーとして出演。その他、白いチンパンジーやホオジロザメの特集番組にもそれぞれ出演する。これらのテレビ出演について、後にライドンはヴァージン・レコードに強いられた法的な縛りのせいだったことを明かしている[19]

2008年6月4日、リアリティ番組の収録中ライドンに暴力を振るわれたとして、番組の女性プロデューサーが、米ロサンゼルスの裁判所に訴えた[20][21]
人物

反抗的で不良じみたスタイルをまとってはいるものの、聡明な一面を持っており、英国及びその隣国の現代史をテーマにした番組に出演した際、「英国を偉大なものにしたのは何か?」というテーマに対し、「俺だろ」とわざとシニカルに振舞った。

猫背は幼い頃に打った脊髄注射の影響で、睨み付けるような目つきはそうしないと焦点が合わないためであり、髄膜炎の後遺症である。

音楽について「音楽は俺の全てなんだ」と述べる一方で「昔から一貫して(音楽)ビジネスってヤツを否定的にしか見られない」と述べている[22]

攻撃的なスタイルである一方、病の後遺症の回復に尽くしてくれたこともあり、大変な母親思いという一面も持っている。
音楽の趣向ピストルズ時代の衣装

ピストルズ以降の音楽活動では、PILでポストパンクの先陣を切って以降、オルタナティヴ・ロック、ポップ、ダンスなど、パンクにとらわれない幅広い音楽性を展開して来た[5][12]。母親が音楽ファンであり、少年時代から様々な音楽に触れて来ている。

1970年代後半、それまでのイギリス、そして世界のロックシーンを支配していたレッド・ツェッペリンピンク・フロイドロッド・スチュワート、などは「コーポレート・ロック」「オールド・ウェイブ」「ダイナソー・ロック」とレッテルをはられ、嘲笑された。このころにライドンはレッド・ツェッペリンのボーカル、ロバート・プラントの前にふざけてひざまつき、神の如く拝める仕草をし[注釈 1]、プラントに頭を蹴られそうになったことがある。しかしレッド・ツェッペリンそのものの音楽性は好みだといい(主に後期ツェッペリン)、後年になるとプラントの作詞能力を認める発言もしている。特に「カシミールの様な歌詞は俺には書けない」とプラントに告白している。本人曰く「フィジカル・グラフティこそ最高だ!」とのこと。2012年1月のアメリカにおけるトークショー[23]では同バンドのレコード数枚は素晴らしく、メンバー数名も個人的に知っていて良いやつらだと語っている。

ピンクフロイドについては後年「俺は初期のピンクフロイドが大好きなんだ。勿論、70年代のいくつかの作品も好きだけどな」と語っている。特にシド ・バレットに対する評価は常に好意的なものである。

ジョン・レノンのことは非常に高く評価しており、彼の「労働者階級の英雄」に影響を受けてピストルズの詩作を始めたと明言している。また、ポール・マッカートニーについても「彼の事は好きだ。長年に渡っていい曲を書いてるんだ。


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