ジョニー・マーサー
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1939年にベニー・グッドマンバンドのトランペッタージギー・エルマンの曲に作詞した『And the Angels Sing』はビング・クロスビーカウント・ベイシーが録音したが、グッドマン・バンドの伴奏でマーサ・ティルトン(Martha Tilton)が歌い、エルマンがトランペット・ソロを取ったバージョンがナンバー1になった。後に同曲のタイトル『そして天使も歌う』はマーサーの墓碑銘になった。

『Day In, Day Out (1939 song)』『フールズ・ラッシュ・イン』のヒットが続き、人気ラジオ・ショー「Your Hit Parade」ではトップ10のうちにマーサー作品が5曲入っていた[20]

この頃ニューヨークで出版社を設立したが短命に終わり、ホーギー・カーマイケルと組んでミュージカル『Walk With Music』をやったがプロットがまずく失敗した。かようにいくつかの落胆はあったものの、マーサーは30歳でキャリアは絶好調だった。
ハロルド・アーレンとのタッグ

この頃、黒人音楽への造詣が深い理想的な相方の作曲家ハロルド・アーレンと出会い、作詞において洗練されたウィットと南部特有の言い回しをまじえたスタイルが確立した。二人の作品では最初に『Blues in the Night』(1941) が成功。アーサー・シュワルツは「恐らく最も偉大なブルース・ソングであろう」と評した[21]

続いて『One for My Baby (and One More for the Road)』(1941), 『That Old Black Magic』 (1942),『降っても晴れても?Come Rain or Come Shine』 (1946) などを共作し、これらの主立ったナンバーの多くが後年までスタンダード化した[22]

またホーギー・カーマイケルとも引き続き仕事をしており、『スカイラーク』 (1941)、オスカー受賞の『In the Cool, Cool, Cool of the Evening』 (1951) を共作。巨匠ジェローム・カーンとは『You Were Never Lovelier』を共作した。

1942年には、ハリウッドでキャピトル・レコードをプロデューサーのバディー・ダシルバ(英語版)とレコード店のオーナー Glen Wallichs とともに設立[1]。ついでにカウボーイ・レコード(英語版)も共同設立した。

1940年代中期、マーサーはハリウッドで最高の作詞家だった。アーヴィング・バーリン同様、文化の流行・変わりゆく言語に敏感だった。

頼まれ仕事で『Laura』『Midnight Sun』『Satin Doll』など、すでにヒットしていたインスト曲にも詞をつけた。外国語曲にも英語詞作詞を手掛けたが、最も有名なのは『枯葉?Autumn Leaves』(フランス語:"Les Feuilles Mortes")であろう。
1950年代

1950年代、バップロックンロールが流行り、仕事が激減したが、仕事は続け、いくつかは後世に残った。MGM映画『掠奪された七人の花嫁』 (1954)、『僕はツイてる』(1958)に詞を書いた。ミュージカル『Top Banana』(1951), 『Li'l Abner』 (1956), 『Saratoga』(1959)にも携わっている。『The Glow-Worm』(歌:Mills Brothers)、エラ・フィッツジェラルドも歌った『Something’s Gotta Give』がヒット。

テレビ時代となり、マーサーも時折テレビ出演するようになった。
マンシーニとのタッグ

1960年代初頭に作曲家ヘンリー・マンシーニと手がけた作品はマーサーの後期のキャリアの中でも特に著名な曲となった。1961年『ムーンリバー』をオードリー・ヘプバーン主演映画『ティファニーで朝食を』に、翌1962年『酒とバラの日々』を同名映画に書き、スタンダード化。これらのブレイク・エドワーズ監督作品に提供した2作は、共にオスカー受賞曲となった[23]。 マーサーとマンシーニは1963年のスタンリー・ドーネン監督作『シャレード』テーマ曲も共作、これもヒットしている。

1964年にエラ・フィッツジェラルドの有名な『ソングブック』シリーズに唯一の作詞家として取り上げられヴァーヴ・レコードから発売された。 トニー・ベネットに『I Wanna Be Around』(1962)、フランク・シナトラに『Summer Wind』(1965)を提供[7]
晩年

1969年、出版人エイブ・オルマン(英語版)とハウィー・リッチモンド(英語版)とともに「ソングライターの殿堂」を設立。 1971年、ニューヨークで回顧コンサートを催し、マーガレット・ホワイティング(英語版)が歌い、『An Evening with Johnny Mercer』というレコードになった。[24]

1974年、ミュージカル『The Good Companions』興行。同年、Pete Moore OrchestraとHarry Roche Constellationと自作曲のアルバムを二枚録音。後に一枚もの『...My Huckleberry Friend: Johnny Mercer Sings the Songs of Johnny Mercer』として再発。
サバンナの墓地のベンチに彫られているマーサーの自画像とサイン

1975年、ポール・マッカートニーが共作を申し込むが脳腫瘍で死の床にいたマーサーはこれを辞退した[25]。1976年6月25日カリフォルニア・ベルエアにて死去。
アカデミー賞

最優秀歌曲

"On the Atchison, Topeka and the Santa Fe
" (1946) (作曲:ハリー・ウォーレン) - 『ハーヴェイ・ガールズ』

"In the Cool, Cool, Cool of the Evening" (1951) (作曲: ホーギー・カーマイケル)- Here Comes The Groom

ムーン・リバー "Moon River" (1961) (作曲:ヘンリー・マンシーニ)-『ティファニーで朝食を

酒とバラの日々 "Days of Wine and Roses" (1962) (作曲:ヘンリー・マンシーニ) -『酒とバラの日々

2009年にクリント・イーストウッドがマーサーの伝記映画"The Dream's on Me" (Turner Classic Movies)を制作、DVD化。
主な作品

"Too Marvelous for Words
" (1937) (作曲:リチャード・A・ホワイティング)

"Jeepers, Creepers!" (1938) (作曲:ハリー・ウォーレン)

"フールズ・ラッシュ・イン" (1940) (作曲: ルーベ・ブルーム)

ブルース・イン・ザ・ナイト "Blues in the Night" (1941) (作曲:ハロルド・アーレン)

G.I.ジャイヴ (1944)

シャレード (1963) (ヘンリー・マンシーニ)

ムーン・リバー "Moon River" (1961) (作曲:ヘンリー・マンシーニ)

酒とバラの日々 (1962) (作曲:ヘンリー・マンシーニ)

"Ac-Cent-Tchu-Ate the Positive" (1944) (作曲:ハロルド・アーレン

"Out of This World" (1945) (作曲:ハロルド・アーレン)

枯葉 "Autumn Leaves" (1947) (作曲:ジョゼフ・コズマ)

"Come Rain or Come Shine" (1946) (作曲:ハロルド・アーレン)

"That Old Black Magic" (1942) (作曲:ハロルド・アーレン)

"Trav'lin' Light" (1942) (作曲:Jimmy Mundy &James Osborne "Trummy" Young)

"Skylark" (1942) (作曲: ホーギー・カーマイケル)

"This Time the Dream's on Me" (1941) (作曲:ハロルド・アーレン)

"Satin Doll" (1953) (作曲:デューク・エリントン& ビリー・ストレイホーン)

"Midnight Sun" (1954) (作曲:ライオネル・ハンプトン&Sonny Burke)

"Something's Gotta Give" (1954) (作曲・作詞:ジョニー・マーサー)



レージーボーンズ "Lazy Bones" (1933) (作曲: ホーギー・カーマイケル)


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