ネイティブ・アメリカンの血は引いていないことがわかってからも、彼らに対する共感や慈悲は弱まることはなかった。彼らへの感情は『Apache Tears 』、『The Ballad of Ira Hayes 』、アルバム『Bitter Tears: Ballads of the American Indian 』など様々な曲でみることができる。 1954年、キャッシュとリベルトはテネシー州メンフィスに移り住み、ラジオのアナウンサーになる勉強をしながら電化製品の販売で生計を立てて、夜はルーサー・パーキンス(ギター)、マーシャル・グラント(ダブルベースのちエレキベース)と共に演奏していた。パーキンスとグラントはテネシー・トゥ
経歴
初期
1955年6月下旬、サン・レコードからシングル『ヘイ・ポーター(Hey Porter )』(B面『Cry! Cry! Cry! 』)を発売し「ジョニー・キャッシュとテネシー2」としてデビューした。ビルボード誌全米カントリーチャート14位を記録するヒットになった(以下、ポップ・チャートも含め記録は全てビルボード誌による)。
同年12月、シングル『フォーサム・プリズン・ブルース』を発売した。カントリー・チャート4位の大ヒットとなった。エルヴィス・プレスリーはインディーのサン・レコードから、メジャーのRCAレコードに移籍した。キャッシュは低音で「やあ、私はジョニー・キャッシュです。("Hello,I'm Johnny Cash.")」という舞台上の挨拶も開始した。
1956年4月、シングル『アイ・ウォーク・ザ・ライン(I Walk The Line )』を発売。初の6週連続1位を獲得。ポップ・チャートでも20位にランクインし人気歌手の名をほしいままにした。
1956年12月4日、ジェリー・リー・ルイスのピアノ演奏によりカール・パーキンスがサン・スタジオで新曲のレコーディング中、エルヴィス・プレスリーがフィリップスのもとを訪れた。この時キャッシュもスタジオにおり、4人は即興でジャム・セッションを始めた。この時の演奏のほぼ半数はゴスペルで、フィリップスはこの模様を録音して後に『ミリオン・ダラー・カルテット』として発表された。自伝『Cash: the Autobiography 』の中で、キャッシュはマイクから一番遠く、プレスリーに合わせていつもより高いピッチで歌っていたと記した。
1957年7月、『Home of the Blues 』をレコーディングし、同年、キャッシュはサン・レコードで初めてLPレコードを発表した。当時サン・レコードで売り上げも作品数も最高であったが、フィリップスはキャッシュがゴスペルをレコーディングすることに意欲的でなく、また一般的に5%であったロイヤルティーに対し3%であったため、この小さなレコード会社と契約していることを窮屈に感じるようになっていた。プレスリーはすでにサン・レコードを離れており、フィリップスはルイスのプロモーションに力を入れていた。翌年キャッシュはサン・レコードを離れ、大手のコロムビア・レコード(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)と契約してシングル『Don't Take Your Guns to Town 』を発表し、大ヒット作の1つとなった。
このころからロックンロールの紹介者であるアラン・フリード(DJ)の「ペイオラ(賄賂)疑惑事件」による解雇(1958年)やエルヴィスの陸軍入隊(1958年)、チャック・ベリーの裁判沙汰による失速(1959年)、バディ・ホリーらの事故死(1959年2月)など初期のロックンローラーが様々な事件事故に巻き込まれた。
1960年、"フルーク"の愛称で親しまれるドラマーのW.S.ホランドがバンドに加入し、バンド名は「ジョニー・キャッシュとテネシー3」になった。ホランドはカントリー界で最初期のドラマーの1人である。
1960年代初頭、キャッシュはカーター・ファミリーのマザー・メイベル & カーター・シスターズ(アニタ、ジューン、ヘレン)と共にコンサート・ツアーを行なうようになった。