1970年、当時のアメリカ合衆国大統領で保守派のリチャード・ニクソン(共和党)に招かれ、初めてホワイトハウスで演奏した。ニクソンは、若い薬物使用者や戦争抗議者を軽蔑する人々に関するマール・ハガードの風刺曲『Okie from Muskogee 』、生活保護受給者の誠実さを否定したガイ・ドレイクの『Welfare Cadillac 』をリクエストした。キャッシュはどちらの曲も辞退し、ネイティヴ・アメリカンで第二次世界大戦の退役軍人でアリゾナ州に戻った後虐待されていたアイラ・ヘイズについての曲『The Ballad of Ira Hayes 』の他、『What Is Truth 』、『Man in Black 』を演奏した。リクエストを断った理由についてキャッシュは、よく知らない曲で練習する時間もなかっただけで、政治的理由はないと語った[28]。しかしキャッシュは練習する時間を充分に与えられたとしても「アンチ・ヒッピーでアンチ・ブラック」なこれらの曲は演奏しなかったとされる[69]。なお、「Okie from Muskogee」を歌ったマール・ハガードは、2000年代以降には民主党のバラク・オバマやヒラリー・クリントンを支持した。 1980年、史上最年少の48歳でカントリー・ミュージック殿堂入りし、コンサート・ツアーでは成功し続けていたが1980年代はカントリーのヒット曲は生まれなかった。1980年代半ば、いずれもカントリー界の重鎮であるウェイロン・ジェニングズ
ハイウェイマン
この頃キャッシュは多くのテレビ番組に出演した。1981年、『The Pride of Jesse Hallam 』に主演し、好評を得た。同年『マペット・ショー』に「とても特別なゲスト・スター」として出演した。1983年、ジョージア州で実際に起こった事件を基にした『Murder in Coweta County 』で英雄的保安官を演じ、宿敵役をアンディ・グリフィスが演じた。数年間映画製作に携わり、称賛を得た。
1983年、自身の農場で飼い続けていたダチョウに蹴られて重い腹部損傷を負い、処方された鎮痛剤から薬物中毒が再発してしまった[70]。
1988年、心臓発作からの療養中のウェイロン・ジェニングスを見舞いに病院へ行った際、ジェニングスはキャッシュに心臓の健診を受けるよう勧めた。医者は予防のための心臓手術を勧め、キャッシュは同病院で2箇所の冠動脈大動脈バイパス移植術を受けた。キャッシュは依存症再発を恐れて処方鎮痛薬を断ったが2人共回復した。キャッシュはこの手術について後に「臨死体験を経験した」と語った。
1980年代、キャッシュのレコーディングのキャリア、ナッシュビルの機関との関係は常に低かった。約30年間所属していたコロムビアはもはやキャッシュに興味を示さず、全く彼を売り出そうとしなかった。彼は、キャッシュの脳に鶏の脳を移植した『チキン・イン・ブラック』を作曲した。皮肉にもこの数年の間でより大きなヒット曲となった。1981年から1984年の間、著名なプロデューサーのビリー・シェリルと共にセッションをレコーディングしたが発売が延期になり、2014年3月25日、コロムビアの姉妹会社のレガシー・レコーディングスから『Out Among the Stars 』が発売された[71]。しかしキャッシュは彼らからクビになる前に自分から辞めたがっており、『チキン・イン・ブラック』から間もなくキャッシュはコロムビアを離れた。
1986年、ロイ・オービソン、ジェリー・リー・ルイス、カール・パーキンスと共にアルバム『Class of '55 』のレコーディングのためメンフィスのサン・レコードに戻った。また同年、サウロが改宗により使徒パウロとなったことについて、キャッシュは唯一の小説『Man in White 』を出版した。1988年、アメリカ合衆国大統領選挙でテネシー州上院議員民主党候補アル・ゴアを支持した。キャッシュは、もともと民主党支持である。1990年、新約聖書を題材にした『Johnny Cash Reads The Complete New Testament 』をレコーディングした。 コロムビアとの契約が終了した後、1987年から1991年、マーキュリー・レコードと短期間契約したが、ヒットしなかった。 1990年代、伝統的なカントリーのファン以外からも注目されるようになり、再び脚光を浴びるようになった。1991年、クリスチャン・パンク
アメリカン・レコーディングス
1994年、ルービンの指示のもと彼のリビング・ルームでキャッシュと長年共に演奏してきたマーティン・ドレッドノートのギター演奏で『American Recordings 』をレコーディングした[72]。ルービンが選んだコンテンポラリー・アーティストのカヴァーを特徴とし、高評価を得て商業的にも成功し、グラミー賞最優秀コンテンポラリー・フォーク・アルバム賞を受賞した。MTVでビデオクリップがオンエアされ、ロック世代の若者ファンを少し獲得した。またキャッシュは1994年のグラストンベリー・フェスティバルでの歓迎ぶりは彼の経歴の中でも大きなできごとの1つだったと記した。以降約10年間、音楽業界での称賛および商業的成功が続くこととなった。Red Hot Organization によるエイズのチャリティ・アルバム『Red Hot + Country 』の中で『フォーサム・プリズン・ブルース』を歌うためにブルックス&ダンと組んだ。またこのアルバムの中でボブ・ディランの曲『Forever Young 』も演奏した。
キャッシュと妻はジェーン・シーモア主演の『ドクタークイン 大西部の女医物語』に出演した。シーモアはキャッシュを高く評価し、双子の息子の1人に彼の名前を付けた。『ザ・シンプソンズ』のエピソード『El Viaje Misterioso de Nuestro Jomer (The Mysterious Voyage of Homer) 』でホーマー・シンプソンをスピリチュアル・クエストに案内するのスペース・コヨーテ役で声のカメオ出演した。1996年、キャッシュはトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズと共に『Unchained』を発表し、グラミー賞最優秀カントリー・アルバム賞を受賞した。1975年の自伝『Man in Black 』で書ききれなかったことを1997年の『Cash: The Autobiography 』で書いたとされる。 1997年、神経変性疾患による多系統萎縮症と診断された。この診断は後に糖尿病と関連する自律神経失調症と変更された。これによりコンサート・ツアーは中止となった。1998年、重度の肺炎で入院した。2000年、アルバム『American III: Solitary Man
後年