1970年代半ば、キャッシュの人気とヒット曲数は下降し始めた。消費者が石油不足と価格高騰で困惑していた頃に高い利益を得ていたことで当時不人気だった石油会社のAmoco のコマーシャルに出演した。しかし1975年に出版された最初の自伝『Man in Black 』は130万冊を売り上げ、1997年には2冊目の自伝『Cash: The Autobiography 』を出版した。ビリー・グラハムと親交があり、イエス・キリストの生涯についての映画『The Gospel Road 』を共同で執筆およびナレーターを務めた。
1970年代、CBSのクリスマス特別番組の司会を何年か務めた。1974年、TVドラマ『刑事コロンボ』第24話「白鳥の歌」に、妻らを謀殺するミュージシャン「トミー・ブラウン」役で出演した[68]。犯人のキャラクターは前科を持ちながら人気歌手となるなど、キャッシュ自身と共通するイメージをもったものであった[68]。 また1976年、『大草原の小さな家』の『The Collection 』のエピソードに妻と共に出演し、1985年、南北戦争についてのミニシリーズ『南北戦争物語 愛と自由への大地』でジョン・ブラウン役を演じた。さらにキャッシュとジューンは『ドクタークイン 大西部の女医物語』にも何度か出演した。 キャッシュはリチャード・ニクソン以降アメリカ合衆国大統領と親交を持っていた。ジミー・カーターとは特に親しく、親友となった[28]。キャッシュはこの大統領達が全て魅力的な人々で、これが当選の秘訣だったのだろうと語った[28]。ジョニー・キャッシュとニクソン大統領、キャッシュはこの時ニクソンに監獄法の改正を訴えた。1972年7月、ホワイトハウスにて。 1970年、当時のアメリカ合衆国大統領で保守派のリチャード・ニクソン(共和党)に招かれ、初めてホワイトハウスで演奏した。ニクソンは、若い薬物使用者や戦争抗議者を軽蔑する人々に関するマール・ハガード 1980年、史上最年少の48歳でカントリー・ミュージック殿堂入りし、コンサート・ツアーでは成功し続けていたが1980年代はカントリーのヒット曲は生まれなかった。1980年代半ば、いずれもカントリー界の重鎮であるウェイロン・ジェニングズ
ニクソンとの面会
ハイウェイマン
この頃キャッシュは多くのテレビ番組に出演した。1981年、『The Pride of Jesse Hallam 』に主演し、好評を得た。同年『マペット・ショー』に「とても特別なゲスト・スター」として出演した。1983年、ジョージア州で実際に起こった事件を基にした『Murder in Coweta County 』で英雄的保安官を演じ、宿敵役をアンディ・グリフィスが演じた。数年間映画製作に携わり、称賛を得た。
1983年、自身の農場で飼い続けていたダチョウに蹴られて重い腹部損傷を負い、処方された鎮痛剤から薬物中毒が再発してしまった[70]。
1988年、心臓発作からの療養中のウェイロン・ジェニングスを見舞いに病院へ行った際、ジェニングスはキャッシュに心臓の健診を受けるよう勧めた。医者は予防のための心臓手術を勧め、キャッシュは同病院で2箇所の冠動脈大動脈バイパス移植術を受けた。キャッシュは依存症再発を恐れて処方鎮痛薬を断ったが2人共回復した。キャッシュはこの手術について後に「臨死体験を経験した」と語った。
1980年代、キャッシュのレコーディングのキャリア、ナッシュビルの機関との関係は常に低かった。約30年間所属していたコロムビアはもはやキャッシュに興味を示さず、全く彼を売り出そうとしなかった。彼は、キャッシュの脳に鶏の脳を移植した『チキン・イン・ブラック』を作曲した。皮肉にもこの数年の間でより大きなヒット曲となった。1981年から1984年の間、著名なプロデューサーのビリー・シェリルと共にセッションをレコーディングしたが発売が延期になり、2014年3月25日、コロムビアの姉妹会社のレガシー・レコーディングスから『Out Among the Stars 』が発売された[71]。しかしキャッシュは彼らからクビになる前に自分から辞めたがっており、『チキン・イン・ブラック』から間もなくキャッシュはコロムビアを離れた。
1986年、ロイ・オービソン、ジェリー・リー・ルイス、カール・パーキンスと共にアルバム『Class of '55 』のレコーディングのためメンフィスのサン・レコードに戻った。また同年、サウロが改宗により使徒パウロとなったことについて、キャッシュは唯一の小説『Man in White 』を出版した。1988年、アメリカ合衆国大統領選挙でテネシー州上院議員民主党候補アル・ゴアを支持した。キャッシュは、もともと民主党支持である。1990年、新約聖書を題材にした『Johnny Cash Reads The Complete New Testament 』をレコーディングした。 コロムビアとの契約が終了した後、1987年から1991年、マーキュリー・レコードと短期間契約したが、ヒットしなかった。 1990年代、伝統的なカントリーのファン以外からも注目されるようになり、再び脚光を浴びるようになった。1991年、クリスチャン・パンク
アメリカン・レコーディングス
1994年、ルービンの指示のもと彼のリビング・ルームでキャッシュと長年共に演奏してきたマーティン・ドレッドノートのギター演奏で『American Recordings 』をレコーディングした[72]。ルービンが選んだコンテンポラリー・アーティストのカヴァーを特徴とし、高評価を得て商業的にも成功し、グラミー賞最優秀コンテンポラリー・フォーク・アルバム賞を受賞した。MTVでビデオクリップがオンエアされ、ロック世代の若者ファンを少し獲得した。またキャッシュは1994年のグラストンベリー・フェスティバルでの歓迎ぶりは彼の経歴の中でも大きなできごとの1つだったと記した。