ジョニー・キャッシュ
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彼とバンドのメンバーは当初、それぞれが持っている衣服の中で唯一全員が持っている色だったために黒を着ていた[28]。デビュー当初は他の色も着ていたが、オンもオフも黒を着ているのが好きだと語った。彼がこう言った背景には政治的意図もあったが、彼は普通に黒い衣裳が好きだった[28]。シャツ、タイ、ズボンが真っ黒の古風なアメリカ海軍の制服は隊員から「ジョニー・キャッシュ風」と言われていた[67]。1971年、ベトナム戦争への自らの意見を盛り込んだアルバム『メン・イン・ブラック(Man In Black)』を発表しカントリー・チャート1位となった。

1970年代半ば、キャッシュの人気とヒット曲数は下降し始めた。消費者が石油不足と価格高騰で困惑していた頃に高い利益を得ていたことで当時不人気だった石油会社のAmoco のコマーシャルに出演した。しかし1975年に出版された最初の自伝『Man in Black 』は130万冊を売り上げ、1997年には2冊目の自伝『Cash: The Autobiography 』を出版した。ビリー・グラハムと親交があり、イエス・キリストの生涯についての映画『The Gospel Road 』を共同で執筆およびナレーターを務めた。

1970年代、CBSのクリスマス特別番組の司会を何年か務めた。1974年、TVドラマ『刑事コロンボ』第24話「白鳥の歌」に、妻らを謀殺するミュージシャン「トミー・ブラウン」役で出演した[68]。犯人のキャラクターは前科を持ちながら人気歌手となるなど、キャッシュ自身と共通するイメージをもったものであった[68]。 また1976年、『大草原の小さな家』の『The Collection 』のエピソードに妻と共に出演し、1985年、南北戦争についてのミニシリーズ『南北戦争物語 愛と自由への大地』でジョン・ブラウン役を演じた。さらにキャッシュとジューンは『ドクタークイン 大西部の女医物語』にも何度か出演した。
ニクソンとの面会

キャッシュはリチャード・ニクソン以降アメリカ合衆国大統領と親交を持っていた。ジミー・カーターとは特に親しく、親友となった[28]。キャッシュはこの大統領達が全て魅力的な人々で、これが当選の秘訣だったのだろうと語った[28]ジョニー・キャッシュとニクソン大統領、キャッシュはこの時ニクソンに監獄法の改正を訴えた。1972年7月、ホワイトハウスにて。

1970年、当時のアメリカ合衆国大統領で保守派のリチャード・ニクソン(共和党)に招かれ、初めてホワイトハウスで演奏した。ニクソンは、若い薬物使用者や戦争抗議者を軽蔑する人々に関するマール・ハガードの風刺曲『Okie from Muskogee 』、生活保護受給者の誠実さを否定したガイ・ドレイクの『Welfare Cadillac 』をリクエストした。キャッシュはどちらの曲も辞退し、ネイティヴ・アメリカンで第二次世界大戦の退役軍人でアリゾナ州に戻った後虐待されていたアイラ・ヘイズについての曲『The Ballad of Ira Hayes 』の他、『What Is Truth 』、『Man in Black 』を演奏した。リクエストを断った理由についてキャッシュは、よく知らない曲で練習する時間もなかっただけで、政治的理由はないと語った[28]。しかしキャッシュは練習する時間を充分に与えられたとしても「アンチ・ヒッピーでアンチ・ブラック」なこれらの曲は演奏しなかったとされる[69]。なお、「Okie from Muskogee」を歌ったマール・ハガードは、2000年代以降には民主党のバラク・オバマやヒラリー・クリントンを支持した。
ハイウェイマン

1980年、史上最年少の48歳でカントリー・ミュージック殿堂入りし、コンサート・ツアーでは成功し続けていたが1980年代はカントリーのヒット曲は生まれなかった。1980年代半ば、いずれもカントリー界の重鎮であるウェイロン・ジェニングズ、ウィリー・ネルソンクリス・クリストファーソンとともにスーパーバンド「ハイウェイマン」を結成してレコーディングおよびコンサート・ツアーを行ない、1985年『Highwaymen 』、1990年『Highwaymen 2 』、1995年『Highwaymen ? The Road Goes on forever 』を発表した。ちなみにキャッシュ以外の3人は全てテキサス州出身である。

この頃キャッシュは多くのテレビ番組に出演した。1981年、『The Pride of Jesse Hallam 』に主演し、好評を得た。同年『マペット・ショー』に「とても特別なゲスト・スター」として出演した。1983年、ジョージア州で実際に起こった事件を基にした『Murder in Coweta County 』で英雄的保安官を演じ、宿敵役をアンディ・グリフィスが演じた。数年間映画製作に携わり、称賛を得た。

1983年、自身の農場で飼い続けていたダチョウに蹴られて重い腹部損傷を負い、処方された鎮痛剤から薬物中毒が再発してしまった[70]

1988年、心臓発作からの療養中のウェイロン・ジェニングスを見舞いに病院へ行った際、ジェニングスはキャッシュに心臓の健診を受けるよう勧めた。医者は予防のための心臓手術を勧め、キャッシュは同病院で2箇所の冠動脈大動脈バイパス移植術を受けた。キャッシュは依存症再発を恐れて処方鎮痛薬を断ったが2人共回復した。キャッシュはこの手術について後に「臨死体験を経験した」と語った。

1980年代、キャッシュのレコーディングのキャリア、ナッシュビルの機関との関係は常に低かった。約30年間所属していたコロムビアはもはやキャッシュに興味を示さず、全く彼を売り出そうとしなかった。彼は、キャッシュの脳に鶏の脳を移植した『チキン・イン・ブラック』を作曲した。皮肉にもこの数年の間でより大きなヒット曲となった。1981年から1984年の間、著名なプロデューサーのビリー・シェリルと共にセッションをレコーディングしたが発売が延期になり、2014年3月25日、コロムビアの姉妹会社のレガシー・レコーディングスから『Out Among the Stars 』が発売された[71]。しかしキャッシュは彼らからクビになる前に自分から辞めたがっており、『チキン・イン・ブラック』から間もなくキャッシュはコロムビアを離れた。

1986年、ロイ・オービソン、ジェリー・リー・ルイス、カール・パーキンスと共にアルバム『Class of '55 』のレコーディングのためメンフィスのサン・レコードに戻った。また同年、サウロが改宗により使徒パウロとなったことについて、キャッシュは唯一の小説『Man in White 』を出版した。1988年、アメリカ合衆国大統領選挙でテネシー州上院議員民主党候補アル・ゴアを支持した。キャッシュは、もともと民主党支持である。1990年、新約聖書を題材にした『Johnny Cash Reads The Complete New Testament 』をレコーディングした。
アメリカン・レコーディングス

コロムビアとの契約が終了した後、1987年から1991年、マーキュリー・レコードと短期間契約したが、ヒットしなかった。

1990年代、伝統的なカントリーのファン以外からも注目されるようになり、再び脚光を浴びるようになった。1991年、クリスチャン・パンク・バンドのワン・バッド・ピッグのアルバム『I Scream Sunday 』で『メン・イン・ブラック』を歌った。1993年、アイルランド出身のロックバンドU2のアルバム『ズーロッパ』中の『ワンダラー(The Wanderer )』にゲスト参加した。これ以上メジャーなレコード会社を探すことはせず、ラップハードロックで有名な気鋭プロデューサー、リック・ルービンのアメリカン・レコーディングスからオファーを受け本格的にソロ活動を再開した。ちなみにルービンは元はラップのプロデューサーでRun-D.M.C.のプロデュースによりエアロスミス復活にも貢献した人物だが自身のレーベル「アメリカン」を創始後はトム・ペティらと契約するのを革きりにドノヴァンらルーツ・ミュージックのアーティストの復活に貢献した。リック・ルービンは、その後も2007年度グラミー賞でベスト・プロデューサー・オブ・イヤーを受賞している。

1994年、ルービンの指示のもと彼のリビング・ルームでキャッシュと長年共に演奏してきたマーティン・ドレッドノートのギター演奏で『American Recordings 』をレコーディングした[72]。ルービンが選んだコンテンポラリー・アーティストのカヴァーを特徴とし、高評価を得て商業的にも成功し、グラミー賞最優秀コンテンポラリー・フォーク・アルバム賞を受賞した。


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