ジョニー・キャッシュ
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あなたは私に質問することはできない」と応えた[28]。この火災で508エーカー(206ヘクタール)、3山を焼き、53羽しかいなかった絶滅寸前カリフォルニアコンドルのうち49羽が出て行ってしまった[52]。キャッシュは反省もなく「ハゲタカのことなんかどうでもいい」と語った。連邦政府は彼を訴え、125,172ドル(2014年の貨幣価値で936,741ドル).を科した。最終的に示談によりキャッシュは82,001ドルを支払った[53]。森林火災を引き起こし、連邦政府から訴えられたのはキャッシュだけである[28]

キャッシュはクールなアウトローのイメージを作り上げようとしていたが、実際に実刑判決を受けたことはなかった。微罪により収監されたことは何度かあったが、一夜のみで出獄した。彼が刑事事件を起こしたケースとしては1965年のツアー中、麻薬をメキシコ国境から持ちこもうとしてテキサス州エルパソで逮捕されたことがある。警察官達はキャッシュがメキシコからヘロインを密輸したのではないかと容疑をかけたが、ギター・ケースに隠したデキセドリンのカプセル688錠、エクワニル475錠が見つかったのみであった。これらは不法な麻薬ではなく処方薬であり、執行猶予を受けた。映画「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」劇中、キャッシュが薬物に手を出したきっかけとなるシーンではミュージシャン仲間のどんちゃん騒ぎの中でカール・パーキンスが薬物を服用した状態のプレスリーの様子をジョニーに見せ「スカッとするぜ」とあおっている。このトラブルが元で妻・ヴィヴィアンとも離婚。娘達も妻側に引き取られる。

1965年5月11日、ミシシッピ州スタークヴィルで深夜に私有地に不法侵入して花を摘もうとして逮捕された。刑務所で収録されたライヴ・アルバム『At San Quentin 』によると、これを基に『Starkville City Jail 』を作曲した。

1965年、映画『007 サンダーボール作戦』の主題歌候補として「サンダーボール作戦」(詞も曲も異なる)を歌うが、最終選考でトム・ジョーンズに敗れた[54]

1960年代半ば、キャッシュのナレーションを入れた『Sings the Ballads of the True West 』(1965年)、ネイティヴ・アメリカンに焦点を当てた『Bitter Tears 』(1964年)など多くのコンセプト・アルバムを発表した。薬物中毒の状態はこの時が最悪で、彼の破壊的な行動により最初の妻と離婚することになり、コンサートも中止になった。

1967年、ジューン・カーターとのデュエット『Jackson 』がグラミー賞を受賞した。

1967年、ジョージア州ウォーカー郡で処方薬入りのバッグを所持し、交通事故を起こして逮捕された。保安官を買収しようとしたが、保安官は金を払いのけてキャッシュはジョージア州ラファイエットの刑務所で一夜を過ごすことになった。キャッシュの危険な行動、将来性を無駄にしていることを心配したラルフ・ジョーンズ保安官に長時間説教されてから釈放された。この経験で人生を考え直したキャッシュは後にラファイエットを再訪してチャリティ・コンサートを開き、人口9千人に満たない町に12,000人が来場し高等学校への寄付75,000ドルが集まった[55]。1997年のインタビューで「しばらく薬物を飲んでいたが、いつの間にか薬物が自分を飲み込んでいた」と語った[56]

薬物を完全に断ち切るまで数年間かかり、重い禁断症状によりニッカジャック洞窟で自殺を企てた。洞窟の奥深くに入っていき、気絶し床に伏せた時、ただ死ぬのだと考えた。疲れ果て、限界がきた時、神の存在を心に感じ、かすかな光とそよ風が彼を洞窟から外に導いた。彼にとってこれが再生の時であり、カーター家のジューン、メイベル、エズラがキャッシュの邸宅に引っ越してきて1か月かけて薬物の克服の手伝いをした。1968年2月22日、オンタリオ州ロンドンにあるロンドン・ガーデンズでのコンサートで,演奏中にジューン・カーターにプロポーズした[57]。後世に語られる伝説のプロポーズとなった。翌週3月1日、2人はケンタッキー州フランクリンで結婚した。ジューンはキャッシュが全てを精算した上で結婚に同意した[58]。キャッシュは信仰心を再認識し、ナッシュビル近郊にある小さな教会のEvangel Temple でカントリー界の巨匠ハンク・スノウの息子Reverend Jimmie Rodgers Snow が司りAltar call を受けた。

長年の友人であるマーシャル・グラントによると、1968年のキャッシュの再生で完全に薬物をやめられた訳ではなかった。しかし1970年、7年間の薬物使用を完全にやめた。息子ジョン・カーター・キャッシュの誕生が、キャッシュに薬物を完全にやめさせたのだ。1977年、再度アンフェタミンに手を出してしまった。1983年までにまた薬物中毒になり、リハビリのためカリフォルニア州ランチョ・ミラージュにあるベティ・フォード・クリニックに入院した。何年間かは薬物から遠ざかっていたが、1989年までにまた依存症になり、ナッシュビルのカンバーランド・ハイツに入院した。1992年、最後のリハビリのためカリフォルニア州ロマ・リンダにあるロマ・リンダ行動医療センターに入院した。数か月後、息子もこの施設に入院した[59][60][61]
フォーサム・プリズン・ブルース

キャッシュは囚人に対して大きな慈悲を感じていた。1950年代終盤から刑務所でのコンサート活動を始めた。1958年1月1日、サン・クエンティン州立刑務所でのコンサートが最初であった[62]。これらのコンサートによりライヴ・アルバム『アット・フォーサム・プリズン(At Folsom Prison )』[63](1968年)、『At San Quentin 』(1969年)が大ヒットした。『アット・フォーサム・プリズン』はカントリー・チャートに92週、ポップ・チャートに122週もランクしつづける大ヒットとなった。

フォーサム刑務所では『フォーサム・プリズン・ブルース』、サン・クエンティンではクロスオーヴァーでヒットしたシェル・シルヴァスタイン作詞の『A Boy Named Sue 』を披露した。『A Boy Named Sue 』はスーという女性名を付けられた男が父親に復讐するという歌詞で、サン・クウェンティンでは大歓声で迎えられた[64]『A Boy Named Sue 』はカントリー・チャートで第1位、ポップ・チャートで第2位を獲得した。またこの曲には乱暴な言葉が含まれていたため、編集された。現在のCD版では編集されておらず、レコード版より長い。

1972年、スウェーデンのOsteraker Prison でコンサートが行なわれ、1973年、ライヴ・アルバム『Pa Osteraker 』が発表された。「サン・クエンティン」という歌詞は「Osteraker 」に替えられた。
メン・イン・ブラック

1969年から1971年、ABCで彼がMCを務める『ジョニー・キャッシュ・ショー』が放映された。ザ・スタトラー・ブラザーズが毎回オープニングの演奏をし、カーター・ファミリーとロカビリーの巨匠カール・パーキンスがレギュラー出演していた。ゲストでニール・ヤングルイ・アームストロングケニー・ロジャース&ザ・ファースト・エディション(最多4回出演)、ジェームス・テイラーレイ・チャールズ、ロジャー・ミラー、デレク・アンド・ザ・ドミノスボブ・ディランジョニ・ミッチェルら多数のミュージシャンが出演した。またこの頃、ロバート・レッドフォードマイケル・J・ポラード、ロウレン・ハットン主演の映画『お前と俺』のサウンドトラック『Little Fauss and Big Halsy 』にテーマ曲を含む何曲かを提供した。カール・パーキンス作曲の『The Ballad of Little Fauss and Big Halsey 』はゴールデングローブ賞にノミネートされた。

1960年代半ば、キャッシュはディランと出会い、1960年代終盤にニューヨーク州ウッドストックで近所になってからより親しくなった。キャッシュは引きこもりがちなディランを観客の前に引っ張り出した。ディランのカントリーのアルバム『ナッシュヴィル・スカイライン』の中でディランと『北国の少女(Girl from the North Country)』をデュエットで録音し発表した。

シンガーソングライターとして名が出てきていたクリス・クリストファーソンも『ジョニー・キャッシュ・ショー』に出演した。クリストファーソンの曲『Sunday Mornin' Comin' Down 』の中にマリファナに言及する歌詞があり、テレビ局の重役に合わせて歌詞を替えることをキャッシュは拒んだ[65]

1970年初頭までに、彼のイメージは「メン・イン・ブラック」になった。いつも全身黒の衣裳、膝丈の黒のロング・コートを着用していた。当時多くのカントリー・アーティストはラインストーンのついたスーツにカウボーイブーツが主流だったため、キャッシュの衣裳はとても目立った。1971年、キャッシュは『Man in Black 』を作曲し、ドレスコードについて言及した。


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