1988年、心臓発作からの療養中のウェイロン・ジェニングスを見舞いに病院へ行った際、ジェニングスはキャッシュに心臓の健診を受けるよう勧めた。医者は予防のための心臓手術を勧め、キャッシュは同病院で2箇所の冠動脈大動脈バイパス移植術を受けた。キャッシュは依存症再発を恐れて処方鎮痛薬を断ったが2人共回復した。キャッシュはこの手術について後に「臨死体験を経験した」と語った。
1980年代、キャッシュのレコーディングのキャリア、ナッシュビルの機関との関係は常に低かった。約30年間所属していたコロムビアはもはやキャッシュに興味を示さず、全く彼を売り出そうとしなかった。彼は、キャッシュの脳に鶏の脳を移植した『チキン・イン・ブラック』を作曲した。皮肉にもこの数年の間でより大きなヒット曲となった。1981年から1984年の間、著名なプロデューサーのビリー・シェリルと共にセッションをレコーディングしたが発売が延期になり、2014年3月25日、コロムビアの姉妹会社のレガシー・レコーディングスから『Out Among the Stars 』が発売された[71]。しかしキャッシュは彼らからクビになる前に自分から辞めたがっており、『チキン・イン・ブラック』から間もなくキャッシュはコロムビアを離れた。
1986年、ロイ・オービソン、ジェリー・リー・ルイス、カール・パーキンスと共にアルバム『Class of '55 』のレコーディングのためメンフィスのサン・レコードに戻った。また同年、サウロが改宗により使徒パウロとなったことについて、キャッシュは唯一の小説『Man in White 』を出版した。1988年、アメリカ合衆国大統領選挙でテネシー州上院議員民主党候補アル・ゴアを支持した。キャッシュは、もともと民主党支持である。1990年、新約聖書を題材にした『Johnny Cash Reads The Complete New Testament 』をレコーディングした。 コロムビアとの契約が終了した後、1987年から1991年、マーキュリー・レコードと短期間契約したが、ヒットしなかった。 1990年代、伝統的なカントリーのファン以外からも注目されるようになり、再び脚光を浴びるようになった。1991年、クリスチャン・パンク
アメリカン・レコーディングス
1994年、ルービンの指示のもと彼のリビング・ルームでキャッシュと長年共に演奏してきたマーティン・ドレッドノートのギター演奏で『American Recordings 』をレコーディングした[72]。ルービンが選んだコンテンポラリー・アーティストのカヴァーを特徴とし、高評価を得て商業的にも成功し、グラミー賞最優秀コンテンポラリー・フォーク・アルバム賞を受賞した。MTVでビデオクリップがオンエアされ、ロック世代の若者ファンを少し獲得した。またキャッシュは1994年のグラストンベリー・フェスティバルでの歓迎ぶりは彼の経歴の中でも大きなできごとの1つだったと記した。以降約10年間、音楽業界での称賛および商業的成功が続くこととなった。Red Hot Organization によるエイズのチャリティ・アルバム『Red Hot + Country 』の中で『フォーサム・プリズン・ブルース』を歌うためにブルックス&ダンと組んだ。またこのアルバムの中でボブ・ディランの曲『Forever Young 』も演奏した。
キャッシュと妻はジェーン・シーモア主演の『ドクタークイン 大西部の女医物語』に出演した。シーモアはキャッシュを高く評価し、双子の息子の1人に彼の名前を付けた。『ザ・シンプソンズ』のエピソード『El Viaje Misterioso de Nuestro Jomer (The Mysterious Voyage of Homer) 』でホーマー・シンプソンをスピリチュアル・クエストに案内するのスペース・コヨーテ役で声のカメオ出演した。1996年、キャッシュはトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズと共に『Unchained』を発表し、グラミー賞最優秀カントリー・アルバム賞を受賞した。1975年の自伝『Man in Black 』で書ききれなかったことを1997年の『Cash: The Autobiography 』で書いたとされる。 1997年、神経変性疾患による多系統萎縮症と診断された。この診断は後に糖尿病と関連する自律神経失調症と変更された。これによりコンサート・ツアーは中止となった。1998年、重度の肺炎で入院した。2000年、アルバム『American III: Solitary Man
後年
2003年5月15日、妻ジューン・カーター・キャッシュが73歳で死去した。ジューンは生前、キャッシュに仕事を続けるよう語ったため、キャッシュはレコーディングを続けてその後の4か月間で60曲以上を完成させ、バージニア州ブリストル郊外にあるカーター・ファミリー・フォールドに2回サプライズ出演した。2003年7月5日、彼の最後のコンサートで『Ring of Fire 』の前に、舞台に上がる直前に書いた亡き妻への思いを読み上げた。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}今夜、彼女の私への愛と私の彼女への愛と共にジューン・カーターの魂が私を訪れる。私達はここと天国の間で繋がっている。今夜彼女は天国から少しの間訪れた。きっと私に彼女がいつも持ち合わせていた勇気と創造力を与えるために。
死去ジョニー・キャッシュの墓
ナッシュビルのバプティスト病院に入院中、妻が亡くなってから4か月に満たない2003年9月12日午前2時頃、糖尿病による合併症で亡くなった。作家のDulce Zamora や他の人々は、ジューンの死去による傷心が原因で病状が悪化したのではないかと語った[75][76]。テネシー州ヘンダーソンヴィルの自宅近くにあるヘンダーソンヴィル・メモリー・ガーデンズで妻の隣に埋葬された。
2005年6月、ヘンダーソンヴィルのコーディル通りにあった湖畔の邸宅が売りに出された。2006年1月、ビージーズのヴォーカリストのバリー・ギブと妻リンダが推定230万ドルで購入した。上場代理人はキャッシュの弟トミー・キャッシュが務めた。1968年から晩年まで居住した邸宅が、2007年4月10日、大幅な改修を行なっていた時、アマニ油製品から自然点火燃焼の火事で全焼した[77]。
2006年7月4日、ルービンとの最後のコラボレート作品『American V: A Hundred Highways 』がキャッシュの没後に発表された。7月22日の週、『ビルボード』誌のアルバム・チャートで初登場第1位を獲得した。
2010年2月23日、キャッシュの78歳の誕生日の3日前、キャッシュ家、ルービン、ロスト・ハイウェイ・レコードはキャッシュ没後2枚目のアルバム『American VI: Ain't No Grave 』を発表した。 1999年、数々の賞を受賞したジョン・ロイド・ミラー
派生作品
2005年11月、彼を題材にしたジェームズ・マンゴールド監督映画『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道(Walk The Line )』が公開され、批評家からも高い評価を受けた。第78回アカデミー賞でジョニー役のホアキン・フェニックスが主演男優賞にノミネート、ジューン役のリース・ウィザースプーンが主演女優賞を受賞し、アリアンヌ・フィリップスの衣裳デザイン賞など5部門でノミネートされた。