1960年代半ば、キャッシュのナレーションを入れた『Sings the Ballads of the True West 』(1965年)、ネイティヴ・アメリカンに焦点を当てた『Bitter Tears 』(1964年)など多くのコンセプト・アルバムを発表した。薬物中毒の状態はこの時が最悪で、彼の破壊的な行動により最初の妻と離婚することになり、コンサートも中止になった。
1967年、ジューン・カーターとのデュエット『Jackson 』がグラミー賞を受賞した。
1967年、ジョージア州ウォーカー郡で処方薬入りのバッグを所持し、交通事故を起こして逮捕された。保安官を買収しようとしたが、保安官は金を払いのけてキャッシュはジョージア州ラファイエットの刑務所で一夜を過ごすことになった。キャッシュの危険な行動、将来性を無駄にしていることを心配したラルフ・ジョーンズ保安官に長時間説教されてから釈放された。この経験で人生を考え直したキャッシュは後にラファイエットを再訪してチャリティ・コンサートを開き、人口9千人に満たない町に12,000人が来場し高等学校への寄付75,000ドルが集まった[55]。1997年のインタビューで「しばらく薬物を飲んでいたが、いつの間にか薬物が自分を飲み込んでいた」と語った[56]。
薬物を完全に断ち切るまで数年間かかり、重い禁断症状によりニッカジャック洞窟で自殺を企てた。洞窟の奥深くに入っていき、気絶し床に伏せた時、ただ死ぬのだと考えた。疲れ果て、限界がきた時、神の存在を心に感じ、かすかな光とそよ風が彼を洞窟から外に導いた。彼にとってこれが再生の時であり、カーター家のジューン、メイベル、エズラがキャッシュの邸宅に引っ越してきて1か月かけて薬物の克服の手伝いをした。1968年2月22日、オンタリオ州ロンドンにあるロンドン・ガーデンズでのコンサートで,演奏中にジューン・カーターにプロポーズした[57]。後世に語られる伝説のプロポーズとなった。翌週3月1日、2人はケンタッキー州フランクリンで結婚した。ジューンはキャッシュが全てを精算した上で結婚に同意した[58]。キャッシュは信仰心を再認識し、ナッシュビル近郊にある小さな教会のEvangel Temple でカントリー界の巨匠ハンク・スノウの息子Reverend Jimmie Rodgers Snow が司りAltar call を受けた。
長年の友人であるマーシャル・グラントによると、1968年のキャッシュの再生で完全に薬物をやめられた訳ではなかった。しかし1970年、7年間の薬物使用を完全にやめた。息子ジョン・カーター・キャッシュの誕生が、キャッシュに薬物を完全にやめさせたのだ。1977年、再度アンフェタミンに手を出してしまった。1983年までにまた薬物中毒になり、リハビリのためカリフォルニア州ランチョ・ミラージュにあるベティ・フォード・クリニックに入院した。何年間かは薬物から遠ざかっていたが、1989年までにまた依存症になり、ナッシュビルのカンバーランド・ハイツに入院した。1992年、最後のリハビリのためカリフォルニア州ロマ・リンダにあるロマ・リンダ行動医療センターに入院した。数か月後、息子もこの施設に入院した[59][60][61]。 キャッシュは囚人に対して大きな慈悲を感じていた。1950年代終盤から刑務所でのコンサート活動を始めた。1958年1月1日、サン・クエンティン州立刑務所でのコンサートが最初であった[62]。これらのコンサートによりライヴ・アルバム『アット・フォーサム・プリズン(At Folsom Prison
フォーサム・プリズン・ブルース
フォーサム刑務所では『フォーサム・プリズン・ブルース』、サン・クエンティンではクロスオーヴァーでヒットしたシェル・シルヴァスタイン作詞の『A Boy Named Sue 』を披露した。『A Boy Named Sue 』はスーという女性名を付けられた男が父親に復讐するという歌詞で、サン・クウェンティンでは大歓声で迎えられた[64]『A Boy Named Sue 』はカントリー・チャートで第1位、ポップ・チャートで第2位を獲得した。またこの曲には乱暴な言葉が含まれていたため、編集された。現在のCD版では編集されておらず、レコード版より長い。
1972年、スウェーデンのOsteraker Prison でコンサートが行なわれ、1973年、ライヴ・アルバム『Pa Osteraker 』が発表された。「サン・クエンティン」という歌詞は「Osteraker 」に替えられた。 1969年から1971年、ABCで彼がMCを務める『ジョニー・キャッシュ・ショー』が放映された。ザ・スタトラー・ブラザーズ
メン・イン・ブラック
1960年代半ば、キャッシュはディランと出会い、1960年代終盤にニューヨーク州ウッドストックで近所になってからより親しくなった。キャッシュは引きこもりがちなディランを観客の前に引っ張り出した。ディランのカントリーのアルバム『ナッシュヴィル・スカイライン』の中でディランと『北国の少女(Girl from the North Country)』をデュエットで録音し発表した。
シンガーソングライターとして名が出てきていたクリス・クリストファーソンも『ジョニー・キャッシュ・ショー』に出演した。クリストファーソンの曲『Sunday Mornin' Comin' Down 』の中にマリファナに言及する歌詞があり、テレビ局の重役に合わせて歌詞を替えることをキャッシュは拒んだ[65]。
1970年初頭までに、彼のイメージは「メン・イン・ブラック」になった。いつも全身黒の衣裳、膝丈の黒のロング・コートを着用していた。当時多くのカントリー・アーティストはラインストーンのついたスーツにカウボーイブーツが主流だったため、キャッシュの衣裳はとても目立った。1971年、キャッシュは『Man in Black 』を作曲し、ドレスコードについて言及した。
キャッシュは貧困や飢えに苦しむ人、長年罪を償い続けている囚人[66]、老いや薬物と戦っている人[66]の側に立って黒をまとった。またそれ以外に、キャッシュは「多くのアメリカ人と同様にベトナム戦争について心を痛めており、失われた命への追悼の気持ちもあって黒を着ている。終戦からだいぶ経ったが、この気持ちを変える理由が見つからない。年老いた人々は放置され、貧しい人々は貧しいまま、若くして命を落とす人もおり、我々はまだ解決策を見つけられないでいる。世の中にはまだ暗闇が広がっている」と語った[66]。
彼とバンドのメンバーは当初、それぞれが持っている衣服の中で唯一全員が持っている色だったために黒を着ていた[28]。デビュー当初は他の色も着ていたが、オンもオフも黒を着ているのが好きだと語った。彼がこう言った背景には政治的意図もあったが、彼は普通に黒い衣裳が好きだった[28]。シャツ、タイ、ズボンが真っ黒の古風なアメリカ海軍の制服は隊員から「ジョニー・キャッシュ風」と言われていた[67]。1971年、ベトナム戦争への自らの意見を盛り込んだアルバム『メン・イン・ブラック(Man In Black)』を発表しカントリー・チャート1位となった。
1970年代半ば、キャッシュの人気とヒット曲数は下降し始めた。消費者が石油不足と価格高騰で困惑していた頃に高い利益を得ていたことで当時不人気だった石油会社のAmoco のコマーシャルに出演した。しかし1975年に出版された最初の自伝『Man in Black 』は130万冊を売り上げ、1997年には2冊目の自伝『Cash: The Autobiography 』を出版した。ビリー・グラハムと親交があり、イエス・キリストの生涯についての映画『The Gospel Road 』を共同で執筆およびナレーターを務めた。