ジョニー・キャッシュ
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若い頃は高めのテナーの声で、その後バス=バリトンになった[30]。カーター・ファミリーのメンバーでカーター家の次女のジューン・カーターは、のちに彼の妻となった。高校生の時、地元のラジオ局で歌っていた。数十年後、伝統的なゴスペル曲を集めたアルバム『My Mother's Hymn Book 』を発表した。ジャック・ベニーのラジオ番組で毎週デニス・デイが歌っていた伝統的アイルランド音楽にも大きな影響を受けた[31]

1950年7月7日、アメリカ空軍に入隊した[32]テキサス州サンアントニオにあるラックランド空軍基地での基礎訓練、ブルックス空軍基地での技術訓練の後、ドイツランヅバーグにある合衆国空軍通信保安部の第12通信隊にソビエト軍のモールス信号傍受オペレーターとして配属された[33]。ここで彼は「ザ・ランヅバーグ・バーバリアンズ」という名のバンドを初めて組織した[34]。彼が初めて傍受したニュースはヨシフ・スターリンの死であった[35]。1954年7月3日、三等軍曹となり、テキサス州に戻った[36]
結婚および家族

1951年7月18日、空軍訓練中、サンアントニオのローラースケート場で地元の17歳のヴィヴィアン・リベルトと出会った。交際3週間後、キャッシュはドイツに3年間赴任することになった。この間2人は全部で何百ページにもおよぶラブレターを交換した[37]。退役から1か月後の1954年8月7日、2人はサンアントニオにあるセント・アン・カトリック教会で結婚式を挙げた。式は彼女のおじのヴィンセント・リベルトが司った。2人はロザンヌ・キャッシュ、キャシー、シンディ、タラの4人姉妹をもうけた。リベルトによると、キャッシュの薬物およびアルコール依存症、コンサート・ツアーによるすれ違い、浮気などに悩まされ、ジューン・カーターとの関係が引き金となり1966年に離婚した。

キャッシュのキャリアはロンドンのプロモーターであるソウル・ホリフに任せており、2人の関係はソウルの息子が製作したドキュメンタリー映画『My Father and the Man in Black 』に描かれている[38]1977年

グランド・オール・オープリー』の舞台裏で初めて出会ってから13年後の1968年、カナダオンタリオ州ロンドンでのライヴ演奏中、キャッシュは有名なカーター・ファミリーのジューン・カーターにプロポーズした[39]。1968年3月1日、ケンタッキー州フランクリンで2人は結婚した。1970年3月3日、1人息子ジョン・カーター・キャッシュをもうけた。2003年にカーターが亡くなるまでの35年間、2人はコンサート・ツアーを含む音楽活動を共に行った。キャッシュはカーターが亡くなった4か月後に亡くなった。
祖先

キャッシュは自身のルーツを探り、主にスコットランドイングランドを祖先に持つことを知った。父方の祖先にはスコットランド王家のマルカム4世の流れを汲んでいた[40][41][42]。スコットランドのファイフのフォークランドの当時地主であったMajor Michael Crichton-Stuart との面会後、11世紀までさかのぼってキャッシュ家の家系図を製作した[43][44][45]。キャッシュ湖など、キャッシュ家に由来する名前がファイフのあちこちにある[43]

ネイティブ・アメリカンの血は引いていないことがわかってからも、彼らに対する共感や慈悲は弱まることはなかった。彼らへの感情は『Apache Tears 』、『The Ballad of Ira Hayes 』、アルバム『Bitter Tears: Ballads of the American Indian 』など様々な曲でみることができる。
経歴
初期

1954年、キャッシュとリベルトはテネシー州メンフィスに移り住み、ラジオのアナウンサーになる勉強をしながら電化製品の販売で生計を立てて、夜はルーサー・パーキンスギター)、マーシャル・グラントダブルベースのちエレキベース)と共に演奏していた。パーキンスとグラントはテネシー・トゥとして知られていた。キャッシュはレコード契約を得るために、徐々にサン・レコードを訪れる勇気が湧いてきていた。同年末にメンフィスのローカル・レーベル「サン・レコード」のメンフィス・レコーディング・サーヴィスでレコード作りを依頼、「製作料は4ドル」と聞かされた金欠のジョニーは驚くが当時エルヴィス・プレスリー(1954年デビュー)のプロデュースに忙しかったサン社長でプロデューサーのサム・フィリップスのオーディションを受けた。サム・フィリップスによるオーディションで主にゴスペル曲を歌ったが、フィリップスはもうゴスペル曲は採用していないと語った。この時フィリップスは「家に帰って犯罪でもしろ。それで曲を作って持ってきたら採用してやる」と語ったという噂があったが、2002年のインタビューでキャッシュはフィリップスはそのようなことは言っていないと否定した[46]。キャッシュは以前のロカビリーのスタイルで新曲を披露し、契約に漕ぎ着けた。因みにカントリー歌手になった後もキャッシュはゴスペルをしばしばライヴなどで歌っている。サン・レコードは他にも後にジョニーの紹介で契約するロイ・オービソンカール・パーキンスジェリー・リー・ルイスといった多くの初期のロックスターを輩出していく。1955年

1955年6月下旬、サン・レコードからシングル『ヘイ・ポーター(Hey Porter )』(B面『Cry! Cry! Cry! 』)を発売し「ジョニー・キャッシュとテネシー2」としてデビューした。ビルボード誌全米カントリーチャート14位を記録するヒットになった(以下、ポップ・チャートも含め記録は全てビルボード誌による)。

同年12月、シングル『フォーサム・プリズン・ブルース』を発売した。カントリー・チャート4位の大ヒットとなった。エルヴィス・プレスリーはインディーのサン・レコードから、メジャーのRCAレコードに移籍した。キャッシュは低音で「やあ、私はジョニー・キャッシュです。("Hello,I'm Johnny Cash.")」という舞台上の挨拶も開始した。

1956年4月、シングル『アイ・ウォーク・ザ・ライン(I Walk The Line )』を発売。初の6週連続1位を獲得。ポップ・チャートでも20位にランクインし人気歌手の名をほしいままにした。

1956年12月4日、ジェリー・リー・ルイスのピアノ演奏によりカール・パーキンスがサン・スタジオで新曲のレコーディング中、エルヴィス・プレスリーがフィリップスのもとを訪れた。この時キャッシュもスタジオにおり、4人は即興でジャム・セッションを始めた。この時の演奏のほぼ半数はゴスペルで、フィリップスはこの模様を録音して後に『ミリオン・ダラー・カルテット』として発表された。自伝『Cash: the Autobiography 』の中で、キャッシュはマイクから一番遠く、プレスリーに合わせていつもより高いピッチで歌っていたと記した。

1957年7月、『Home of the Blues 』をレコーディングし、同年、キャッシュはサン・レコードで初めてLPレコードを発表した。当時サン・レコードで売り上げも作品数も最高であったが、フィリップスはキャッシュがゴスペルをレコーディングすることに意欲的でなく、また一般的に5%であったロイヤルティーに対し3%であったため、この小さなレコード会社と契約していることを窮屈に感じるようになっていた。プレスリーはすでにサン・レコードを離れており、フィリップスはルイスのプロモーションに力を入れていた。翌年キャッシュはサン・レコードを離れ、大手のコロムビア・レコード(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)と契約してシングル『Don't Take Your Guns to Town 』を発表し、大ヒット作の1つとなった。


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