キャッシュは53歳の時に、カントリーぎらいで有名なフランク・ザッパと出会った。両者とも民主党支持だったため相性が良かったのか、後日ザッパはコンサートでキャッシュの「リング・オブ・ファイア」を歌った[16]。
前妻との娘ローザンヌ・キャッシュ[17](81年に「セブン・イヤー・エイク」のヒットあり)や、ジューンとの息子ジョン・カーター・キャッシュ、ジューンと前前夫の娘カーリーン・カーターなども歌手である。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第21位[18]。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第31位[19]。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第14位[20]。 1932年、アーカンソー州キングスランドに[21]レイ・キャッシュ(1897年5月13日 - 1985年12月23日)[22]とキャリー・クロヴリー(旧姓リヴァーズ、1904年3月13日 - 1991年3月11日)[23][24]のもとに7人きょうだいの4番目として生まれた。空軍に入隊する際、イニシャルの使用ができなかったため法的にジョン・R・キャッシュと名付けた。1955年、サン・レコードと契約する際、芸名としてジョニー・キャッシュと名付けた[25]。 キャッシュの兄弟は、ロイ、マーガレット・ルイーズ、ジャック、J・R、リーバ、ジョアンヌ、トミーである[26][27]。キャッシュの末の弟のトミー・キャッシュ
プロフィール
生い立ち
1935年3月、キャッシュが3歳の時、アーカンソー州ダイエスに住んでいた。一家は同州ダイエスの失業救済局作業場で綿花を育て生計を立てており、彼も5歳頃から兄ジャックとともに家族の農業の手伝いをし、働きながら家族で歌っていた。この農場は少なくとも2回洪水被害に遭っており、この経験を基に後に『Five Feet High and Rising 』を作曲した[28]。世界恐慌のあおりを受けて家計は逼迫し、この経験を基に多くの曲を作曲した。
キャッシュは兄のジャックととても仲が良かった[29]。1944年5月、農場の機械に巻き込まれ、あやうく2人とも被害に遭うところであったが、1週間の重体の後1944年5月20日ジャックのみが15歳で亡くなった[28]。キャッシュはこの出来事に関してしばしば罪悪感を口にしていた。自伝『Cash: The Autobiography 』によると、あの朝父はいなかったが、父も母もそしてジャックもまるで予兆を感じていたかのようで、母はジャックに仕事に行かずに釣りに行くよう促していた。ジャックは家計のことを考え仕事を選んだ。死の淵でジャックは天国と天使が見えると語った。数十年後、キャッシュは天国で兄と会えることが楽しみだと語った。
幼少の頃、ゴスペルやラジオから大きな影響を受けた。母や幼馴染からギターを習い、12歳で演奏および作曲を始めた。若い頃は高めのテナーの声で、その後バス=バリトンになった[30]。カーター・ファミリーのメンバーでカーター家の次女のジューン・カーターは、のちに彼の妻となった。