『グランド・オール・オープリー』の舞台裏で初めて出会ってから13年後の1968年、カナダのオンタリオ州ロンドンでのライヴ演奏中、キャッシュは有名なカーター・ファミリーのジューン・カーターにプロポーズした[39]。1968年3月1日、ケンタッキー州フランクリンで2人は結婚した。1970年3月3日、1人息子ジョン・カーター・キャッシュをもうけた。2003年にカーターが亡くなるまでの35年間、2人はコンサート・ツアーを含む音楽活動を共に行った。キャッシュはカーターが亡くなった4か月後に亡くなった。 キャッシュは自身のルーツを探り、主にスコットランドとイングランドを祖先に持つことを知った。父方の祖先にはスコットランド王家のマルカム4世の流れを汲んでいた[40][41][42]。スコットランドのファイフのフォークランドの当時地主であったMajor Michael Crichton-Stuart との面会後、11世紀までさかのぼってキャッシュ家の家系図を製作した[43][44][45]。キャッシュ湖など、キャッシュ家に由来する名前がファイフのあちこちにある[43]。 ネイティブ・アメリカンの血は引いていないことがわかってからも、彼らに対する共感や慈悲は弱まることはなかった。彼らへの感情は『Apache Tears 』、『The Ballad of Ira Hayes 1954年、キャッシュとリベルトはテネシー州メンフィスに移り住み、ラジオのアナウンサーになる勉強をしながら電化製品の販売で生計を立てて、夜はルーサー・パーキンス(ギター)、マーシャル・グラント(ダブルベースのちエレキベース)と共に演奏していた。パーキンスとグラントはテネシー・トゥ
祖先
経歴
初期
1955年6月下旬、サン・レコードからシングル『ヘイ・ポーター(Hey Porter )』(B面『Cry! Cry! Cry! 』)を発売し「ジョニー・キャッシュとテネシー2」としてデビューした。ビルボード誌全米カントリーチャート14位を記録するヒットになった(以下、ポップ・チャートも含め記録は全てビルボード誌による)。
同年12月、シングル『フォーサム・プリズン・ブルース』を発売した。カントリー・チャート4位の大ヒットとなった。エルヴィス・プレスリーはインディーのサン・レコードから、メジャーのRCAレコードに移籍した。キャッシュは低音で「やあ、私はジョニー・キャッシュです。("Hello,I'm Johnny Cash.")」という舞台上の挨拶も開始した。
1956年4月、シングル『アイ・ウォーク・ザ・ライン(I Walk The Line )』を発売。初の6週連続1位を獲得。ポップ・チャートでも20位にランクインし人気歌手の名をほしいままにした。
1956年12月4日、ジェリー・リー・ルイスのピアノ演奏によりカール・パーキンスがサン・スタジオで新曲のレコーディング中、エルヴィス・プレスリーがフィリップスのもとを訪れた。この時キャッシュもスタジオにおり、4人は即興でジャム・セッションを始めた。この時の演奏のほぼ半数はゴスペルで、フィリップスはこの模様を録音して後に『ミリオン・ダラー・カルテット』として発表された。自伝『Cash: the Autobiography 』の中で、キャッシュはマイクから一番遠く、プレスリーに合わせていつもより高いピッチで歌っていたと記した。
1957年7月、『Home of the Blues 』をレコーディングし、同年、キャッシュはサン・レコードで初めてLPレコードを発表した。当時サン・レコードで売り上げも作品数も最高であったが、フィリップスはキャッシュがゴスペルをレコーディングすることに意欲的でなく、また一般的に5%であったロイヤルティーに対し3%であったため、この小さなレコード会社と契約していることを窮屈に感じるようになっていた。プレスリーはすでにサン・レコードを離れており、フィリップスはルイスのプロモーションに力を入れていた。翌年キャッシュはサン・レコードを離れ、大手のコロムビア・レコード(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)と契約してシングル『Don't Take Your Guns to Town 』を発表し、大ヒット作の1つとなった。
このころからロックンロールの紹介者であるアラン・フリード(DJ)の「ペイオラ(賄賂)疑惑事件」による解雇(1958年)やエルヴィスの陸軍入隊(1958年)、チャック・ベリーの裁判沙汰による失速(1959年)、バディ・ホリーらの事故死(1959年2月)など初期のロックンローラーが様々な事件事故に巻き込まれた。
1960年、"フルーク"の愛称で親しまれるドラマーのW.S.ホランドがバンドに加入し、バンド名は「ジョニー・キャッシュとテネシー3」になった。ホランドはカントリー界で最初期のドラマーの1人である。
1960年代初頭、キャッシュはカーター・ファミリーのマザー・メイベル & カーター・シスターズ(アニタ、ジューン、ヘレン)と共にコンサート・ツアーを行なうようになった。また、マルチプレイヤーのロイ・クラークともこの頃から共演をしたりしていた。
1960年代、ピート・シーガーの短命番組『Rainbow Quest 』に出演した[47]。1961年、映画『Five Minutes to Live 』に主演、オープニング・テーマ曲の作曲および演奏を行なった。 1950年代後期にキャリアが始まり、キャッシュは大量の飲酒およびアンフェタミンやバルビツレートの中毒になった。短期間、重度のアンフェタミン中毒のウェイロン・ジェニングスとナッシュビルのアパートをシェアしていた。コンサート・ツアー中、自分を覚醒させるために上記の薬物を使用していた。友人達は冗談で「神経質」、変人などと言い、多くの者が彼の薬物中毒の危険信号を見逃していた。『The Johnny Cash Show
アウトローのイメージ
負の連鎖は続いていたが、キャッシュの熱い創作意欲によりヒット作を連発していた。1963年、『リング・オブ・ファイア(Ring Of Fire )』がカントリー・チャート7週連続1位に、ポップ・チャートでトップ20以内にランクインし、クロスオーバーでヒットした。この曲はジューン・カーターとマール・キルゴアが作曲した。この曲は元々ジューンの姉妹が演奏していたのだが、キャッシュが自分が見た夢の通りにマリアッチ・スタイルの管楽器を加えた[48]。ヴィヴィアン・リベルトは彼女の著書『I Walked the Line: My Life with Johnny 』で異論を唱え、経済的事情により作曲者名をキャッシュがカーターに変更したのだと語った[49]。