ジョナス・メカス
Jonas Mekas
生年月日 (1922-12-24) 1922年12月24日
没年月日 (2019-01-23) 2019年1月23日(96歳没)
出生地 リトアニア共和国 ビルジャイ近郊セメニシュケイ
ジョナス・メカス(Jonas Mekas 1922年12月24日 - 2019年1月23日[1])はアメリカ合衆国の映像作家・詩人・活動家。1950年代からハリウッド映画に対する批判としてニューヨークなどでさかんになった実験映画の文化を支えながら、自らも数々の映像作品を制作した。とくに身辺の映像記録をもとにした「日記映画 (diary films)」で知られる。晩年まで母国語のリトアニア語で詩作を行い、リトアニアを代表する詩人の一人でもある。リトアニア語ではヨナス・メカス。
来歴ジョナス・メカス
1922年、リトアニアのセメニシュケイで小農の家に生まれる。当時リトアニアは第一次大戦を境に民族意識が高まり、「リトアニア共和国」として悲願の独立を果たしたばかりだった。民族文化を育てるため自国語専門の図書館や劇場などの建設があいつぎ、リトアニア語の詩人や作家が熱狂的に支持される空気の中でメカスは幼少期を過ごした[2]。
1940年にリトアニアは再びソ連に編入され、ナチスの侵攻とともに戦火に包まれる。高校生になっていたメカスは弟と地下活動に身を投じ、イギリスのBBC放送へ現地報告を書き送りつづけたが[3]、親族の手引きで兄弟ともにウィーンへ脱出する。この逃避行のころからメカスは詳細な日記をつけはじめている[2]。
ウィーン到着の前にナチスにとらえられ、現在のドイツ北部エルムスホルンにある強制労働キャンプへ収容される[4]。1945年の3月にキャンプを脱出、デンマークに潜伏して避難民の収容所などで暮らした。逃走をつづけるなか書き継がれた詩が弟の手で英訳され、1948年に出版される[3]。当時国際的な文名を誇っていたチェスワフ・ミウォシュやジョン・アシュベリーによって絶賛され、母国リトアニアでも大きな注目を集めた[2]。この間、メカスはごく短期間マインツ大学で哲学を学んでいる。 1949年10月、弟とともに難民船でアメリカに渡る。ニューヨークのウィリアムズバーグに居をさだめ、工場勤務のかたわら映画館に通う生活が続いた[2]。メカスはアメリカに到着後まもなく16ミリカメラを入手しており、詩作とともに身辺の映像を記録するようになる[5]。 1953年の春、みずから主催してアヴァンギャルド映画の上映会を開始[2]。ここに集まった愛好者とともに1955年には『フィルム・カルチャー』誌を創刊する。 『フィルム・カルチャー』は当時黄金期を迎えていたハリウッド映画とは異なる映像文化をめざすとうたい、ルドルフ・アルンハイムやジークフリート・クラカウアーなど当時第一線の映画研究者・評論家が寄稿した。のちに米国を代表する映画評論家となるアンドリュー・サリスのほか多くの映画監督も参加し、『フィルム・カルチャー』は、しだいにニューヨークにおけるアヴァンギャルド映画・実験映画の拠点とみなされるようになった[6]。また1960年、メカスは独自にアヴァンギャルド映画の配給を行う団体 (The New American Cinema Group
アメリカへ
このころニューヨークを中心とするハリウッド映画への異議申し立ての動きは様々な実験映画に結実し、シャーリー・クラーク『ザ・コネクション』(1961)やロバート・フランクとアルフレッド・レスリー『プル・マイ・デイジーPull My Daisy(英語: Pull My Daisy)』(1959)といった秀作が作られた[7]。そうした動きのなかで1961年、メカスは最初の映画『樹々の砲塔 (Guns of the Trees)』を完成させている(公開は1964年)。
前衛アートの中心人物にアヴァンギャルド映画の上映・保存のためメカスが設立した「アンソロジー・フィルム・アーカイブス」の現在の建物。
メカスは60年代初め、二つの事件をきっかけに米国社会で大きな注目を集めるようになる。
一つは1963年5月に劇場「リビング・シアター」で起きた事件で、ここで上演されていた前衛的な演目を不満に思った劇場主が上演期間中に劇場を閉鎖、反発したダンサーが封鎖を破って上演を強行し逮捕されたという事件である[8]。