ジョゼフ・プリーストリー
[Wikipedia|▼Menu]
ハートリーは宗教的「事実」や道徳的「事実」を科学的に証明することを目標としており、プリーストリーも同じことを生涯の目標とした。ダヴェントリーでの3年目、「あらゆる職業の中で最も高貴だ」とする聖職者になることを決意した[13]
ニーダムマーケットおよびナントウィッチ時代 (1755?61)The Rudiments of English Grammar (1761年、英文法の基礎)の表紙

プリーストリーの伝記を書いたロバート・スコフィールドによれば、聖職者としての最初の任地はサフォーク州ニーダムマーケット(1755年)だったが、これは本人にとっても会衆にとっても不幸なことだった[14]。プリーストリーは都会生活と神学的討論に憧れたのに対して、ニーダムマーケットは単なる田舎町で神学討論などできるはずもなかった。彼の異端性が明らかになると、会衆は寄り付かなくなり、寄付も急落した。叔母は彼が聖職者になったら援助することを約束していたが、カルヴァン主義者でなくなってしまったことを知ると、援助することを断わるようになった。収入を得るため、学校を開設することを提案したが、地元民は彼の学校に子供を通わせるわけにはいかないと断わった。そこで Use of the Globes(地理教育)と題した一連の科学的講演を行って糊口をしのいだ[15]

ダヴェントリー時代の友人らの尽力もあり、1758年にチェシャー州ナントウィッチに移ることになり、以前よりは幸せになった。会衆は彼の異端性をそれほど気にせず、首尾よく学校を開設できた。当時の他の教師とは異なり、生徒に自然哲学を教え、実験器具まで買い揃えた。当時入手可能だった英文法の教科書の質に失望し、自ら The Rudiments of English Grammar (1761年、直訳すると『英文法の基礎』[注釈 1])を書いた[17]。独創的な英文法の説明(特にラテン語の文法と切り離した点が重要)により、20世紀の学者に「当時の最も偉大な文法家の1人」と評されることになった[18]。その文法書を出版し、学校も成功すると、1761年、ウォリントン・アカデミー (Warrington Academy) から教師として招かれることになった[19]
ウォリントン・アカデミー時代 (1761?67)妻メアリー・プリーストリーの肖像画(カール・フレデリク・フォン・ブレダ (Carl F. von Breda) 画、1793年)[20]

1761年、ウォリントンに引越し、そこの非国教徒向けアカデミーで現代言語と修辞学の講師を務めるようになったが、好んで数学や自然哲学も教えた。ウォリントンにはすぐ馴染み、友人もできた。1762年6月23日、メアリー・ウィルキンソンと結婚。この結婚について本人が次のように書き残している。これは非常に適当で幸福な繋がりとなった。私の妻は素晴らしく理解があり、よく読書しており、忍耐力と心の強さがあり、他人にはきわめて寛大で優しく、自分には厳しい。また、家事全般が非常にうまく、私は家事について全く心配する必要がなくなり、研究や仕事に専念できるようになった[21]

1763年4月17日、娘が生まれ、叔母の名をとってサラと名付けた[22]
教育者として、歴史家として

ウォリントン時代に出版した本は全て歴史関連である。彼は歴史を学ぶことが世俗的成功にも宗教的成長にも必須だと考えていた。科学とキリスト教の歴史を描くことで、人間性の進歩を明らかにすると同時に、逆説的に「原始キリスト教」が変質していった様を明らかにしようとした[23]A Chart of Biography (1765年、伝記図表)改訂版。プリーストリーはこのような年表で、生徒達に「世界にこれまで存在した主な帝国の勃興、変遷、範囲、存在期間、同時代の正しいイメージを印象付け」られると信じていた[24]

Essay on a Course of Liberal Education for Civil and Active Life (1765年、市民の積極的生活のための一般教育コースについて)[25]や Lectures on History and General Policy (1788年、歴史と政策についての講義)といった著作で、若者の教育が将来の実用的必要性を予期してなされるべきだと主張した。この考え方により、ウォリントンの向上心に燃える中流の生徒達に慣習に従わない教科課程の選択をさせるようになった。彼は古典言語よりも現代言語を推奨し、古代史よりも現代史を推奨した。歴史の講義は特に革命的だった。歴史を神の摂理として説く面と自然主義的に説く面を併せ持ち、歴史の研究が神の自然法の理解を促進したと主張した。さらにその千年王国的史観は、科学の発展と人間性の改善についての楽観主義と強く結びついていた。時代の変遷と共に世の中がよくなっていると信じており、歴史を学ぶことでそれを感じ、その進歩を進めることが可能になると考えていた。歴史の勉強は道徳的にも必須だと考えていたため、中流の女性の教育にも熱心だったが、これは当時としては非常に珍しいことだった[26]。教育学者の中には、17世紀のジョン・ロックと19世紀のハーバート・スペンサーの間で最も重要なイギリスの教育作家としてプリーストリーを挙げる者もいる[27]。Lectures on History は高く評価され、ブラウン大学プリンストン大学イェール大学ケンブリッジ大学といった多くの教育機関で教科書として採用された[28]。歴史の「講義」の視覚的補助として2つの「伝記図表」を考案した[29]。これらは偉人や国家の存命(存在)期間を線で表した一種の年表で、18世紀に出版された年表の中では最も影響を与えた年表とされている[30]。どちらも数十年間広く利用された。プリーストリーの講義と図に感銘を受けたウォリントンの理事がエジンバラ大学からプリーストリーに法学博士号を授けるよう働きかけ、1764年にそれが実現した[31]
電気学の歴史著書 Familiar Introduction to Electricity (1768) 初版に掲載されている電気実験装置の図。この実験装置を兄弟と共に販売しようとしたが失敗した[32]

18世紀のウォリントンは知的刺激に満ちていて「北のアテナイ」とも呼ばれた。そんな中でプリーストリーも自然哲学への関心を深めていった。同じウォリントンの講師で友人のジョン・セドン (John Seddon) と共に、解剖学の講義をしたり温度についての実験を行ったりした[33]。講師として多忙を極める中、電気学の歴史について執筆することを決意。友人からイギリスの主な電気研究者ジョン・カントン (John Canton) とウィリアム・ワトソン (William Watson) を紹介され、当時イギリスを訪れていたベンジャミン・フランクリンにも会った。そして電気の歴史に含めたい実験を自分でやってみるよう勧められた。他者の実験を再現するうちに、さまざまな疑問がわき上がってきて興味をかきたてられ、結局自分でも新たな実験を考案することになった[34]。なお、カントン、ワトソン、フランクリンとリチャード・プライス (Richard Price) はプリーストリーの年表と電気の歴史の原稿に感銘を受け、彼を王立協会フェローに推薦。1766年にフェローとなった[35][36]

1767年、700頁の The History and Present State of Electricity (電気学の歴史と現状)を出版し[37]、高評価を得た。前半は1766年までの電気研究史で、後半は当時の様々な理論を解説し、今後の研究の方向性を示唆している。この後半部分には自身が新たに発見したことも書いており、木炭その他の電気伝導率を調べ、導体と不導体の間に中間の物質があることを示した[38]。この発見はそれまで電気を通すのは水と金属だけだとされていた通説を覆すものだった。このような物質の電気的特性についての実験や化学変化における電気の効果についての実験は、プリーストリーが化学物質と電気の関係に興味を持っていたことを示している[39]。帯電球を使った実験で、電気の力が万有引力のように逆2乗の法則に従うということを最初に提唱した。ただし、それを一般化したり発展させることはなく[38]、フランスの物理学者シャルル・ド・クーロンが1780年代にクーロンの法則を定式化することになった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:224 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef