南米の架空の国を舞台にした政治小説の大作『ノストローモ』執筆後に体調を崩し、1906年に南フランスのモンペリエに転地療養し、その間に1894年に起きたグリニッジ天文台爆破未遂事件に関心を持ち、テロリストを題材にした『密偵』を執筆を始め、その後フォード・マドックス・フォード邸やゴールズワージー邸などを移りながら1907年に完成し、アメリカの週刊誌『リッジウェイズ』に連載された[8]。1921年には自ら四幕ものの戯曲化もしている。『西欧人の眼に』執筆後の1910年にも、心身の衰弱により数ヶ月間病床に伏した[9]。1912年に『チヤンス』がアメリカの『ニューヨーク・ヘラルド』紙に連載されて広く人気を得るようになり、ベストセラー作家となった[10]。1914年に滞在したザコパネのヴィラ・コンスタンティヌフスカ 1914年にコンラッド夫妻と二人の息子はポーランドを訪問し、オーストリア=ハンガリー帝国下のクラクフに滞在した。しかし第一次世界大戦が始まったためにリゾート地のザコパネに移り、いとこのAniela Zagorskaの経営するペンションに滞在し、ここには政治家のユゼフ・ピウスツキや、ピアニストのアルトゥール・ルービンシュタインなども出入りしていた。またZagorskaは、ザコパネに疎開していた、作家のステファン・ジェロムスキ、Tadeusz Nalepi?ski、人類学者のブロニスワフ・マリノフスキなどにコンラッドを紹介した[6]。コンラッドの一家は11月にイギリスに帰国。いとこの同名の娘であるAniela Zagorska
晩年
1919年と1922年には、ヨーロッパの作家、批評家の間で、コンラッドのノーベル文学賞受賞を望む声が上がっていた[6]。1919年には全集の刊行が決まり、また1870年代ののスペインの第三次カルリスタ戦争下での王位継承権を巡る争いを舞台にしたロマンス『黄金の矢』を書くが、後世の評価は高くない。1923年にはアメリカへ宣伝旅行に出かける[9]。1924年にラムゼイ・マクドナルド首相よりナイトの称号を打診されたが辞退した(これ以前にもコンラッドはケンブリッジ大学、ダラム大学、エディンバラ大学、リヴァプール大学、イェール大学からの名誉学位を断っている)[6]。姪のアニエラ・ザゴルスカとコンラッド(1914年)
1924年、ケント州のビショップバーンで心臓発作でこの世を去った。遺体は本名のユゼフ・コジェニョフスキの名前でカンタベリーの墓地に埋葬された。墓石には、コンラッドの最後の長編小説『The Rover』で巻頭に掲げられた、エドマンド・スペンサー『妖精の女王』からの引用が刻まれている。Sleep after toyle, port after stormie seas,
Ease after warre, death after life, doth greatly please
12年後の1936年に妻ジェシーが死去、同じ墓地に葬られた。コンラッドの墓地は1996年にイギリス指定建造物2級に指定された[11]。カンタベリーにあるコンラッドの墓地
コンラッドの文学作品は、チャールズ・ディケンズやフョードル・ドストエフスキーに代表される古典的小説とモダニズム小説との中間的存在として位置づけられる。ただしコンラッド本人は、イワン・ツルゲーネフを除き、ロシア文学にはあまり良い印象を持っていなかった。