続いてマルセイユに移り、1700年12月に船に乗ってイタリアに向かおうとしたが、嵐に遭ってサヴォーナに上陸せざるを得なかった[1]。アディソンは海路の代わりに陸路を使い、ジェノヴァ、パヴィーア、ミラノ、ヴェネツィア、サンマリノ、ロレート、ローマ経由で進め、受難週をナポリで過ごした[1][6]。
1702年3月にイングランド王ウィリアム3世が死去、ハリファックス男爵(チャールズ・モンタギューが1700年に叙爵)やサマーズ男爵といったホイッグ党に属するパトロンが官職を解任されたことで官職就任が一気に遠のいたが、アディソンは旅を続け、秋にはスイス、チロル経由でウィーンに到着、年末にはドレスデン、続いてハンブルクに到着した[6]。1703年にはネーデルラント連邦共和国(オランダ)のライデンとアムステルダムを旅し、同地で父の死を知った[6]。書店を経営するジェイコブ・トンソン(英語版)は第6代サマセット公爵チャールズ・シーモアの同意を得て、公爵の息子であるハートフォード伯爵アルジャーノン・シーモアの家庭教師としてアディソンを招聘しようとした[1]。トンソンとアディソンは交渉を始めたが、アディソンが経費と年100ギニーの支払いでも不十分であると主張して公爵を怒らせてしまい、交渉は物別れに終わった[1]。ジョナサン・スウィフトによれば、アディソンが外国で資金難に陥り、(旅する)「男性に随行する家庭教師」(travelling tutor to a squire)になったというが、『英国人名事典』ではこの記述が風刺であり、証拠に裏打ちされた言葉ではないとしている[1]。 アディソンが帰国した時点ではパトロンのハリファックスとサマーズが官職に復帰しておらず、アディソンに外交職を与えられる見込みはなかったが[4]、政府内におけるホイッグ党の影響力は増していた[1]。1704年8月のブレンハイムの戦いでイングランド軍が勝利すると、大蔵卿
アン女王のホイッグ党政権期(1704年 ? 1710年)
いずれにせよ、『戦』の成功により、アディソンの文壇と政界での地位が上がり[1]、1705年イングランド総選挙でホイッグ党が勝利するなどホイッグ党有利の情勢になったため、アディソンは1705年7月には南部省(英語版)政務次官に任命された[6]。このときの南部担当国務大臣はトーリー党のチャールズ・ヘッジスであり、1706年12月にヘッジスが退任して第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーが後任になったときも留任した[1]。同年夏にハリファックス男爵がハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒにガーター勲章を授与するための使節に任命されると[1]、アディソンはハリファックスに同伴してハノーファー選帝侯領に向かった[4]。
官職に就任する傍ら、イタリアでの見聞をもとに散文を書き、1705年11月に『イタリア見聞』(Remarks on Several Parts of Italy、サマーズ男爵に献呈)としてトンソンにより出版された[1][6][7]。この著作は出版してすぐ大人気になり、品薄状態により値段が原価の4から5倍に上がり、1718年に第2版が出版されてようやく落ち着いた[1]。このように、『イタリア見聞』は18世紀のイギリス人が大陸ヨーロッパを旅するときの必携書とされるほどだったが[8]、『オックスフォード英国人名事典』は現代の紀行文学からの視点では。アディソン自身は『イタリア見聞』を友人ジョナサン・スウィフトに贈っている[1]。
散文以外ではオペラ『ロザモンド(英語版)』のリブレットを著した[1]。『ロザモンド』は1700年代にイングランドで流行したイタリア・オペラと異なり、イングランドの伝承に基づくオペラであり[9]、当時イギリスで上演されたオペラの多くがイタリア語の歌を含むのに対し、『ロザモンド』の歌は英語のみだった[1]。