ジョゼフ・アディソン
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1700年夏[6]にパリに戻ったときには哲学者ニコラ・ド・マルブランシュや詩人ニコラ・ボアロー=デプレオーとの対話で問題が生じないほどフランス語が上達した[1]

続いてマルセイユに移り、1700年12月に船に乗ってイタリアに向かおうとしたが、嵐に遭ってサヴォーナに上陸せざるを得なかった[1]。アディソンは海路の代わりに陸路を使い、ジェノヴァパヴィーアミラノヴェネツィアサンマリノロレートローマ経由で進め、受難週ナポリで過ごした[1][6]

1702年3月にイングランド王ウィリアム3世が死去、ハリファックス男爵(チャールズ・モンタギューが1700年に叙爵)やサマーズ男爵といったホイッグ党に属するパトロンが官職を解任されたことで官職就任が一気に遠のいたが、アディソンは旅を続け、秋にはスイスチロル経由でウィーンに到着、年末にはドレスデン、続いてハンブルクに到着した[6]。1703年にはネーデルラント連邦共和国(オランダ)のライデンアムステルダムを旅し、同地で父の死を知った[6]。書店を経営するジェイコブ・トンソン(英語版)は第6代サマセット公爵チャールズ・シーモアの同意を得て、公爵の息子であるハートフォード伯爵アルジャーノン・シーモアの家庭教師としてアディソンを招聘しようとした[1]。トンソンとアディソンは交渉を始めたが、アディソンが経費と年100ギニーの支払いでも不十分であると主張して公爵を怒らせてしまい、交渉は物別れに終わった[1]ジョナサン・スウィフトによれば、アディソンが外国で資金難に陥り、(旅する)「男性に随行する家庭教師」(travelling tutor to a squire)になったというが、『英国人名事典』ではこの記述が風刺であり、証拠に裏打ちされた言葉ではないとしている[1]
アン女王のホイッグ党政権期(1704年 ? 1710年)

アディソンが帰国した時点ではパトロンのハリファックスとサマーズが官職に復帰しておらず、アディソンに外交職を与えられる見込みはなかったが[4]、政府内におけるホイッグ党の影響力は増していた[1]。1704年8月のブレンハイムの戦いでイングランド軍が勝利すると、大蔵卿(英語版)の初代ゴドルフィン男爵シドニー・ゴドルフィンは戦勝を祝う詩を書く詩人の人選についてハリファックスと相談、ハリファックスは十分な報酬があれば有能な作家を推薦できるとした[1]。ゴドルフィンはそれを受けて、財務大臣ヘンリー・ボイル閣下をアディソンのもとにやって、アディソンを招聘した[1]。アディソンは関税控訴委員(commissioner of appeals in the excise、年収200ポンドの官職)を代償に『戦』(The Campaign、1704年12月14日出版[6])と題する詩を書き、それが大成功を収めた[4]。『英国人名事典』は『戦』がハリファックスのボイン川の戦いでの勝利を祝う詩よりは良く、公認詩(official poetry)としては上質と言えたが、同時代の作品のなかでは抜きんでるほどの質ではないとしている[1]。『戦』ではマールバラ公爵を「天使」に比喩したが、サミュエル・ジョンソンが引用したサミュエル・マッデン(英語版)の意見によれば、「10人の学生に聞けば、8人が天使を使うと答えてもおかしくない」(if he had proposed the same topic to ten schoolboys, he should not have been surprised if eight had brought him the angel)ほど平凡な形容だという[1]。ジョセフ・ウォートン(英語版)に至っては「韻を踏む官報」(Gazette in rhyme)と揶揄した[1]

いずれにせよ、『戦』の成功により、アディソンの文壇と政界での地位が上がり[1]、1705年イングランド総選挙でホイッグ党が勝利するなどホイッグ党有利の情勢になったため、アディソンは1705年7月には南部省(英語版)政務次官に任命された[6]。このときの南部担当国務大臣トーリー党のチャールズ・ヘッジスであり、1706年12月にヘッジスが退任して第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーが後任になったときも留任した[1]。同年夏にハリファックス男爵がハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒガーター勲章を授与するための使節に任命されると[1]、アディソンはハリファックスに同伴してハノーファー選帝侯領に向かった[4]

官職に就任する傍ら、イタリアでの見聞をもとに散文を書き、1705年11月に『イタリア見聞』(Remarks on Several Parts of Italy、サマーズ男爵に献呈)としてトンソンにより出版された[1][6][7]。この著作は出版してすぐ大人気になり、品薄状態により値段が原価の4から5倍に上がり、1718年に第2版が出版されてようやく落ち着いた[1]。このように、『イタリア見聞』は18世紀のイギリス人が大陸ヨーロッパを旅するときの必携書とされるほどだったが[8]、『オックスフォード英国人名事典』は現代の紀行文学からの視点では。アディソン自身は『イタリア見聞』を友人ジョナサン・スウィフトに贈っている[1]

散文以外ではオペラ『ロザモンド(英語版)』のリブレットを著した[1]。『ロザモンド』は1700年代にイングランドで流行したイタリア・オペラと異なり、イングランドの伝承に基づくオペラであり[9]、当時イギリスで上演されたオペラの多くがイタリア語の歌を含むのに対し、『ロザモンド』の歌は英語のみだった[1]


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