ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
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ホラント王妃オルタンスの母、ナポレオン3世スウェーデン王妃ジョゼフィーヌの祖母、スウェーデン王カール15世オスカル2世の曾祖母、スウェーデン王グスタフ5世デンマーク王ロヴィーサの高祖母。
来歴・人物
恋多き女

フランス領西インド諸島マルティニーク島の生まれ。祖父の代から母国を離れたクレオールの出身。結婚前の正式名は、マリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリ(Marie Josephe Rose Tascher de la Pagerie)だった。貴族の娘でエキゾチックな美貌の持ち主だったが、大変な浪費家でもあった。生家は貴族といっても名ばかりであり困窮していた。

弱冠16歳の1779年にアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と結婚、一男ウジェーヌ、一女オルタンスをなしたが、当初から夫婦仲が悪く、4年後の1783年に離婚した。後にボアルネ子爵は、フランス革命中の1794年7月23日にギロチンで処刑されてしまう。離婚後、マルティニーク島の実家に戻っていたジョゼフィーヌも、島で多発する暴動に不安を感じてフランスに戻ったが、元夫や友人の助命嘆願が罪に問われてカルム監獄に投獄されてしまう。獄中では、ルイ=ラザール・オッシュ将軍と恋人同士となったと伝わる。しかし、ロベスピエールが処刑されたことにより、同年8月3日に釈放された。

その後、生活のために総裁政府のポール・バラスの愛人となり、親友のテレーズ・カバリュスジュリエット・レカミエと並ぶ社交界の花形となって、「陽気な未亡人」と呼ばれた。このころ、年下のナポレオンの求婚を受け1796年に結婚[1]。バラスが彼女に飽きてナポレオンに押しつけたともいう。この結婚について、長男ウジェーヌは反対、長女オルタンスは賛成だったと伝えられている。しかし、彼女はナポレオンを無骨でつまらない男と見ており、次々と愛人を作り浮気を繰り返した。そうしたこともあって、ナポレオンの母や兄弟姉妹たちとの折り合いは悪かった。

イタリア遠征中にナポレオンが彼女にあてた熱烈な恋文は有名だが、受け取った彼女はろくに読むことも返事を書くこともなく、「ボナパルトって変な人ね」とその手紙を友人に見せて笑いをさそっていた。ナポレオンから何回も戦場へ来るよう促されたが、ごまかして行こうとしない妻のそっけない態度にナポレオンは幾度も絶望を抱く。それに気を揉んだ総裁政府の命令で、彼女は渋々イタリアへ向かった。

ナポレオンはエジプト遠征中にジョゼフィーヌと美男の騎兵大尉イッポリト・シャルルとの浮気を知り、その事を嘆く手紙をフランスに送ったが、手紙を載せたフランス艦がイギリスに拿捕され、手紙の内容が新聞に掲載されてしまう。大恥をかいたナポレオンは離婚を決意し、妻が戻る前に家から荷物を叩き出してしまった。しかし、彼女の連れ子のウジェーヌとオルタンスの涙ながらの嘆願と、ジョゼフィーヌへの愛から離婚は思い止まったのだが、この直後のブリュメールのクーデタを成功に導くための要人対策に広い人脈があったジョゼフィーヌも一役買っている。

ジョゼフィーヌは、初めの離婚騒動あたりから徐々にナポレオンを真摯に愛するようになっていくが、反対にナポレオンのジョゼフィーヌに対する熱烈な愛情は冷めていき、他の女性達に関心を持つようになっていった。
フランス皇后ナポレオンの戴冠式で皇帝となったナポレオンから皇后冠を授けられるジョゼフィーヌ

1804年12月、ナポレオンが「フランス人の皇帝陛下」として即位すると、ジョゼフィーヌにも「フランス人の皇后陛下」の称号が与えられた。

その後ナポレオンは、妹のカロリーヌから紹介されたエレオノール・ドニュエルポーランドの愛人マリア・ヴァレフスカとの間に男児が生まれた事などもあり、1810年1月10日には嫡子が生まれないことを理由にジョゼフィーヌを離縁した。離婚式での彼女は娘のオルタンスが支えなければ歩けないほどショックを受けた様子だった。それ以後、彼女はパリ郊外のマルメゾン城で余生を送ったが、多額の年金を支給され、死ぬまで「ナヴァール女公皇后殿下」という「皇后」の称号を保持することを許された。


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