ジョセフ・スティルウェル
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1883年3月19日 、フロリダ州パラクタに生まれる

1904年6月 、陸軍士官学校卒、司令・参謀大学

1904年10月 、フィリピン

1907年 、グアテマラ

1908年 、メキシコ

1910年10月、 結婚

1911年1月 、フィリピン

1911年9月 、日本

1911年11月 、上海

1911年12月-1912年1月 、フィリピン

1913年 、ウェスト・ポイントの英語・歴史部教官

1914年 、ウェスト・ポイントのスペイン語・近代語部教官。マドリッド派遣

1917年8月 、バージニア州キャンプ・リーの第八十師団付旅団副官

1917年12月 、フランスヨーロッパ派遣アメリカ軍(AEF)参謀将校として諜報活動

1919年8月 、MID(英語版)の中国派遣語学将校に任命され、カリフォルニア大学バークレー校中国語講習を一年間受講

1920年 、山西省で道路建設の技師長を務める。

1921年 、陝西省で道路建設の技師長を務める。

1922年9月 、日本軍シベリア出兵の諜報活動(満州奉天ハルビン[4]ウラジオストク

1923年 、ジョージア州フォート・ベニング歩兵専科教育専門課程。基地司令官ウェルズ将軍の上級参謀補を務める。

1925年 、カンザス州フォート・レヴンワース指揮参謀学校

1926年8月 、天津歩兵第十五連隊大隊長。

1927年9月 、朝鮮日本

1928年1月 、天津歩兵第十五連隊幕僚部参謀次長

1929年4月 、帰国

1929年7月 、ジョージア州フォート・ベニング歩兵学校戦術部長

1933年5月 、サンディエゴ第九軍団管区予備役将校隊訓練

1935年1月 、在中華民国大使館附陸軍武官、?介石の参謀長

1942年2月 、中国ビルマインド戦域米陸軍司令官

1943年8月 、連合国東南アジア軍副最高司令官

1944年10月 、解任され、中国ビルマインド戦域を離れる

1945年1月 、陸軍地上軍司令官(ワシントンDC

1945年6月 、第10軍司令官(沖縄

1945年10月 、西部防衛軍司令官

1946年3月 、第6軍司令官(プレシディオ)

1946年10月12日 、カリフォルニア州サンフランシスコのプレシディオにおいて胃癌のため死去。

評伝

バーバラ・W・タックマン『失敗したアメリカの中国政策 ビルマ戦線のスティルウェル将軍』杉辺利英訳、朝日新聞社、1996年

演じた俳優

ロバート・スタック(映画『1941』、監督スティーヴン・スピルバーグ)この映画で、スティルウェルはハリウッドなどを担当する防空部隊の司令官で、映画館で『ダンボ』(1941年公開)を観て涙を見せた後、ある決断を下している。日本公開当時のパンフレットによると、映画に感動して涙する件りはスティルウェルの回顧録にヒントを得たものという。

脚注^ 戦史叢書4巻 一号作戦<1>河南の会戦 67頁
^ 戦史叢書4巻 一号作戦<1>河南の会戦 66頁

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