ジョシュア・ノートン
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彼が特に強調したのは議会制への嫌悪感であり、「関心を持つ民衆は罪悪を克服するため、サンフランシスコのプラッツ音楽堂に1860年2月に集合すること」を求めている[16]

この勅令は「謀反を起こした」ワシントン政治家たちによって黙殺された。もっと厳しい措置が必要と考えたノートン1世は1860年1月、新たな「皇帝勅令」を発して帝国軍に反乱者を一掃するよう命じた。

自らを「議会」と称する反逆者がワシントンにおいて会合する事実は、明らかに昨年10月12日の「議会の解散を命ずる皇帝勅令」に違反せり。我が帝国の名誉のため、この勅令に対し厳格なる服従あらざるべからず。

かかるゆえに余は、帝国陸軍司令官ウィンフィールド・スコット少将に対し、ただちに議会を制圧せんことを強く命ずる[17]

しかし(「帝国陸軍」とされた)合衆国陸軍は「勅令」を無視し、実務は議会に委ねられ続けた。ノートン1世の治世は共和制と立憲君主制による議会統治の双方を否定し、彼らと対峙することに費やされた。1860年には連邦制の廃止と結社の禁止を「勅令」により宣言した[16]。 議会主義者たちとの戦いは「皇帝」としての生涯を通じてやむことがなかった。彼は嫌々ながらではあるものの、次第に議会の活動継続を許すようになっていった。しかし不服従な議会の挑戦を受けていつもくすぶっているこの対立に対するノートンの対抗手段は先鋭化していった。1869年8月4日ノートンは「皇帝勅令」によって無造作に民主共和両党の廃止を宣言した。

ノートン1世は南北戦争の時期、合衆国国民の間で起こった多くの醜い争いを解決することを希望して、1862年にはプロテスタントとカトリックの全教会に対し彼を皇帝に任命するよう命令した。また、皇帝の御座所であるサンフランシスコを「フリスコ」と略して呼ぶことは敬意の欠如を表しているとしてノートン1世は以下のような憂慮を示す勅書を発した。

言語的にもその他にもいかなる意味も持たない「フリスコ」なる嫌悪すべき概念を用いる者はすべて、この強い警告以降、この語を使用した現場を取り押さえられた場合、重篤な誤用のかどをもって帝国の国庫に対する25ドルの罰金を徴収さるべきこと。
ノートンの精神状態ベイブリッジの建設計画におけるノートンの役割を讃え、1939年に設置された記念碑。現在はサンフランシスコ・トランスベイ・ターミナルに展示されている。

彼の「勅令」を調べることで、ノートンの精神状態を推測しようとするいくつかの試みがあったが、彼は統合失調症であったと考えられている。この精神状態にはしばしば誇大妄想が観察されるためである。また、ノートンは破産後、状態に陥り、架空の世界における生活を通じてそれを乗り越えたと考えることもできる。彼の行動は双極性障害の躁状態によく当てはまる。しかし、彼が医学的に完全に健康であったと考えることもまた不可能ではない。

彼の奇矯な振る舞いにもかかわらず、また実際の精神状態とも無関係に、忘れてはならないのはノートンが時として予見的発想を示しており、「皇帝勅令」は少なからず彼の視野の広さを示しているということである。国際連盟の設立を命じたり宗教・宗派間の紛争を禁じたりする指示にそれが表れている。さらには、彼はしばしばオークランドとサンフランシスコを結ぶ懸架式橋梁の建設を命じており、後の発言には当局がその命令に不服従であることに対する苛立ちが強く示されている。

朕が命じたことについて、サンフランシスコの市民はオークランドの架橋計画および隧道建設計画検討の資金を準備し、どちらの計画がより優れたるかを決定すべし。当市の市民は当命令を無視しており、朕は我が権威を顕示せんがため、かくのごとく命令する。彼らがなおも朕に逆らう場合、陸軍は両議会議員を逮捕すべし。
御名御璽 1872年9月17日 サンフランシスコ

架橋は彼の死後になって実行された。サンフランシスコとオークランドを結ぶサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジの建設は1933年に始まり、1936年に完成した。
「皇帝」としての生活
執務

プレシディオ陸軍駐屯地の将校から譲られた金モール付きの青い凝った軍服をまとい、ビーバーの皮製シルクハットに羽飾りを挿し、勲章をつけて、ノートンは彼が支配下にあると考えるサンフランシスコの街路を頻繁に「視察」に訪れた。好んで携えたステッキなどを装っていたが、サンフランシスコの街路を巡りながら彼は歩道やケーブルカーの状態、公共施設の修理の進行状況や、警官の振る舞いや身だしなみに気を配った。彼は個人的に彼の「臣民」のことを気にかけ、さまざまなテーマについて哲学的な談義を長々と垂れるのを好んだ。

サンフランシスコでは1860年代から70年代にかけて、低賃金で働いて雇用を奪う中国系住民に対する白人市民のデモが市内の最も貧しい地域でしばしば行われたが、それらはいたるところで流血の事態に発展した。あるとき、このようなデモのひとつに皇帝ノートン1世が居合わせ、暴徒たちとリンチを受けそうになっている中国系住民たちの間に立っていた。彼は頭を垂れ、何度も主の祈りを口ずさんでいたが、それを聞いた暴徒たちは恥じて解散してしまったと言われている。
警官アーマンド・バービアによる「大逆罪」

1867年、アーマンド・バービアという警官がノートンを捕え、彼の意に反して精神病の治療を受けさせようとしたとき、騒動が持ち上がった。この逮捕はサンフランシスコの市民と新聞による強い抗議を引き起こしたのである。警察署長パトリック・クロウリーはすぐに対応し、ノートンを釈放して警察として公式に謝罪した。ノートンは寛大にもこの若い警官バービアによる「大逆罪」に「特赦」を下した。この騒動以降、警官たちは通りで「皇帝」に会った時は敬礼するようになった。
人々の尊敬ノートン1世の「帝国政府」発行の10ドル国債

大衆は公然と「皇帝ノートン」を敬愛していた。ほとんど金を持たなかったにもかかわらず、彼はしばしば最上級のレストランで食事をとり、そこのオーナーは「合衆国皇帝ノートン1世陛下御用達」と刻んだブロンズのプレートをレストランの玄関に飾った。ノートンはこのような見栄を張ることを許しており、このプレートは実際にレストランの売り上げに寄与したという人もいる。

セントラルパシフィック鉄道食堂車で食事をした「皇帝」に支払いを請求したために不興を買い、「勅令」によって営業停止命令を受けた。多くの市民が「皇帝」を支持し、反響に驚いた鉄道会社は彼に金色の終身無料パスを奉呈して謝罪した。

ノートン1世の地位には実際に公式な承認の細かい記録がある。1870年国勢調査の統計表において彼は、「ジョシュア・ノートン、住所:コマーシャル・ストリート624番地、職業:皇帝」と記されている。彼はまた小額の負債の支払いのために独自の紙幣を発行しており、それは地域経済において完全に承認されていた。この紙幣は50セントから5ドルまでの額面で発行されていたが、今日のオークションではその希少価値のため1000ドルを超える値が付いている。

サンフランシスコ市はその「権力者」に名誉を与え敬意を表した。その軍服が古びてくると市当局は盛大な儀式とともに新品を買うのに足りる分を支出した。その見返りに「皇帝」は感状を送り、終身貴族特許状を発行した。
伝説化されたノートンの行動雑種犬ラザルスの葬儀を教皇の姿で執り行うノートン1世の姿を描いた、エドワード・ジャンプの風刺画。当時の様々な著名人が列席者として描かれており、墓穴を掘っているのは「ジョージ・ワシントン2世」を自称していたフレデリック・クームスノートンおよびラザルスとブマーを描いたエドワード・ジャンプの風刺画。「Three bummer」(三人の浮浪者)と題されたこの絵を見たノートンは激怒し、絵が飾られているショーウィンドウを杖で激しくたたいた[18]

晩年には、彼はしばしば色々なうわさや憶測の的になった。よくささやかれたうわさの一つに、彼は本当はナポレオン3世の子で、表向き南アフリカ出身と言うことになっているのは追及をかわすためだ、というものがある。別のうわさではノートンはヴィクトリア女王と結婚しようとしているというものがあったが、彼は女王と幾度か手紙を交わしたことがあって、それによって彼女に忠告を与えていたのである。最後に、ノートンは本当は大金持ちだが貧民に対する同情の念から貧しさを装っている、といううわさもあった。

また、メディアや作家たちも好んでノートンの風評を書き立てた。いくつかの偽「勅令」が新聞に掲載されている。これらの新聞の編集者たちは、少なくともいくつかの「勅令」をそれらしい内容で偽造したのではないかと疑われている。サンフランシスコ市立博物館(英語版)は本物だと証明された全ての「皇帝勅令」のリストを所蔵している。

ノートンは二匹のお供の雑種ラザルスとブマー(英語版)[19] を連れ、劇場の貴賓席に現れていたというものもあるが[20]、現在では二匹の犬と皇帝の関係はほとんど無かったと考えられている[18][21]。当時の人気者であった皇帝と二匹の犬を関連付ける記述は当時の新聞記事には掲載されていない[18]


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