ジョアキーノ・ロッシーニ
[Wikipedia|▼Menu]
1829年 - (37歳)最後のオペラ『ウィリアム・テル』を発表。

1835年 - (43歳)歌曲集『音楽の夜会』出版。

1836年 - (44歳)パリを去り、イタリアのボローニャに住む。

1837年 - (45歳)ミラノに移り、毎週金曜日に自宅のサロンで「音楽の夜会」を開く。

1839年 - (47歳)ボローニャに移り、ボローニャ音楽院の永久名誉会長に就任。イタリアでの音楽教育に力を入れる。

1845年 - (53歳)イザベラ死去。

1846年 - (54歳)8月16日高級娼婦のオランプ・ペリシエ(英語版)と再婚。

1848年 - (56歳)フィレンツェに移る。

1855年 - (63歳)病気治療のため、パリに戻る。健康を回復した後、自宅のサロンで、毎週土曜日に「音楽の夜会」を催す。グノーサン=サーンスヴェルディリストなどの作曲家、当時の一流の歌手など、多くの著名人が集った。

1864年 - (72歳)私的演奏会にて「小荘厳ミサ曲」初演(公開での初演は死後の1869年)。

1868年 - (76歳)11月13日、死去。現在はイタリアのサンタ・クローチェ教会に眠る。

人物伝「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」

ロッシーニはイタリアのアドリア海に面したペーザロで音楽一家に生まれた。父ジュゼッペ(Giuseppe)は食肉工場の検査官をしながらトランペット奏者をしていた。また、母アンナ(Anna)はパン屋の娘で歌手であった。両親は彼に早くから音楽教育を施し、6歳の時には父親の楽団でトライアングルを演奏したと言われている。父親はフランスに好意を抱いており、ナポレオンが軍を率いてイタリア北部に到達したことを喜んでいた。しかしこれが元になり、1796年になってオーストリアに政権が復帰すると、父親は投獄されてしまった。母親はロッシーニをボローニャにつれてゆき、生活のためにロマニャーノ・セージアの多くの劇場で歌手として働き、のちに父親と再会した。この間ロッシーニはしばし祖母の元に送られ、手におえない子供と言われていた。容姿はやや太り気味だが、天使のような姿と言われ、かなりのハンサムだったので、多くの女性と浮き名を流した。牛肉とフォアグラのロッシーニ

ロッシーニは10代終わりの頃からオペラ作曲家としての活動を始めた。1813年、20歳から21歳にかけての作品『タンクレーディ』と『アルジェのイタリア女』でオペラ作曲家としての評判を確立し、1816年、24歳の作品『セビリアの理髪師』でヨーロッパ中にその名声をとどろかせた。

1816年以降、ウィーンではロッシーニ人気の高まりによって、イタリア・オペラ派とドイツ・オペラ派の対立が巻き起こったが、イタリア派の勝利に終わった。1822年、ロッシーニは『ゼルミーラ』上演のためにウィーンを訪れ、熱烈な歓迎を受けた。このとき訪問を受けたベートーヴェンは『セビリアの理髪師』を絶賛し、「あなたはオペラ・ブッファ以外のものを書いてはいけません」と述べたという[3]。ベートーヴェンはロッシーニの才能を認めていたが、大衆が自分の音楽の芸術性を評価せず、ロッシーニの曲に浮かれていることに愚痴をもらしている[4]

1823年、ロッシーニはパリを訪問し、やはり議論を巻き起こしながらも大歓迎を受けた。この訪問と同じころに出版された『ロッシーニ伝』において、スタンダールは「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」と絶賛している。

1825年、フランス国王シャルル10世の即位に際して、記念オペラ・カンタータ『ランスへの旅』を作曲、国王に献呈し、「フランス国王の第一作曲家」の称号と終身年金を得る。37歳で『ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)』発表後、オペラ界から引退を表明。以後は『スターバト・マーテル』などの宗教曲や小品のみを作曲し、年金生活に入る。1830年7月革命に際しても新政府と交渉し、前国王政府から給付された年金を確保することに成功した。

一方、彼は若い頃から料理が(食べることも作ることも)大好きで、オペラ界からの引退後、サロンの主催や作曲の傍ら、料理の創作にも熱意を傾けた。フランス料理によくある「○○のロッシーニ風」[注釈 1]は、彼の名前から取られた料理の名前である[注釈 2]。料理の名前を付けたピアノ曲も作っている。

晩年には淋病躁鬱病慢性気管支炎などに悩まされ、ついには1868年直腸癌になり、手術を受けたが、それによる丹毒に感染して生涯を閉じた。

ロッシーニは従来は教会の儀式などでしか聞くことが出来なかった宗教音楽を、一般のコンサートのレパートリーとして演奏するように尽力した人物である。ロッシーニのこの分野での傑作である『スターバト・マーテル』も、実は一般のコンサートを念頭において作曲されたものである。
作曲家として

パリで貧困生活にあえいでいたヴァーグナーがロッシーニのような作曲家になることを目標にしていたことはよく知られている。また、『ウィリアム・テル』を見たベルリオーズは、「テルの第1幕と第3幕はロッシーニが作った。第2幕は、神が作った」と絶賛している。また『セビリアの理髪師』の作曲をわずか3週間で完成させ、ベッリーニは「ロッシーニならそれくらいやってのけるだろう。」と述べている。

ロッシーニは(同時代の他作曲家の例にもれず)現在の著作権・創作概念からみれば考えがたい行動をとっており、同じ旋律を使い回すのは朝飯前で、『セビリアの理髪師』序曲は、『パルミーラのアウレリアーノ』→『イングランドの女王エリザベッタ』の序曲を丸ごと再々利用している。さらにベートーヴェン第8交響曲の主題を剽窃し、また機会オペラ[注釈 3]だった『ランスへの旅』を、細部を手直ししただけでコミックオペラ『オリー伯爵』に作り替えている。
ロッシーニ・ルネッサンス

ロッシーニは死後たちまち忘れられた作曲家となってしまい、『セビリアの理髪師』『チェネレントラ(シンデレラ)』『ウィリアム・テル』(の序曲)の作曲家としてその名をとどめるだけの期間が長く続いた。特に上演や全曲録音はもっぱら『セビリアの理髪師』に集中したため、オペラ作家としては一発屋に近いイメージでとらえられがちだった[注釈 4]。しかし、ペーザロのロッシーニ財団が1960年代終わりから出版を開始し現在も続けられているクリティカル・エディションによるロッシーニ全集の出版などをきっかけに、1970年代になるとロッシーニのオペラが再評価されるようになった。リコルディ社から校訂版楽譜が次々と出版されるようになり、それと並行してクラウディオ・アバドがペーザロで『ランスへの旅』を約150年ぶりに再上演し、以後ヨーロッパにおいてアバドなどの音楽家を中心にロッシーニ・オペラが精力的に紹介されるようになり、1980年代以降その他の作品も見直され、上演される機会が増えた。また、クリティカル・エディションの刊行により、長年受け継がれてきた伝統的な歌唱法や、旧版に記されていた間違いなども改めて見直され、よりロッシーニの楽譜に忠実な演奏が試みられるようになった。この再評価の動きを「ロッシーニ・ルネッサンス」という。現在では『ランスへの旅』、『タンクレーディ』、『湖上の美人』をはじめ、ロッシーニの主要オペラがほぼ再演されるようになっている。のみならず、あまり知られていない作品の蘇演も延々と続いており、作品数が多いだけに、その活況はプッチーニやヴェルディに迫らんばかりの勢いを呈している。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:47 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef