ジューン・カーター・キャッシュ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

ジューンはのちに、姉妹よりもさらに精力的に演奏しなければならなかったが、ジューンにはコメディの才能もあった[4]。ツアー・ショーで盛り上がったのはジューンによる「アウント・ポリー」(ポリーおばさん)というネタであった。カールは自伝においてジューンは「天性のピエロ」であったと記した。数十年後の1976年、カーターはテレビ番組『ジョニー・キャッシュ&フレンズ』の中で「アウント・ポリー」を再演した。この時期ジューンはジョン・マーシャル高等学校に通学していた[5]

1946年終盤のドクとカール降板後、メイベルと娘たちはリッチモンドのラジオ局WRVAのサンシャイン・スー・ワークマンによる『オールド・ドミニオン・バーン・ダンス』に出演するようになった。その後テネシー州ノックスビルのWNOXに出演するようになり、そこでチェット・アトキンスwithホーマー&ジェスロと出会った。

1949年、マザー・メイベル&ザ・カーター・シスターズおよびリード・ギタリストを務めたアトキンスはミズーリ州スプリングフィールドに住み、ラジオ局KWTOにレギュラー出演した。テネシー州ナッシュビルの『グランド・オール・オープリー』から何度も出演オファーを受けていたが、オープリーはアトキンスが共に演奏することを認めなかったため、マネージャーを務めていたエツラはこれらのオファーを断り続けた。アトキンスのギター奏者としての評判は広がり始まっており、スタジオ・ミュージシャンたちは自分たちの出番がなくなることを恐れていた。1950年、オープリー側は態度を軟化し、グループとアトキンスはオープリーに出演した。ここで一家はハンク・ウィリアムズエルヴィス・プレスリーと友達になり、ジューンはジョニー・キャッシュと出会った。

この頃からグループ に叔母のサラが参加し、1960年代から1970年代、グループ名は「カーター・ファミリー」に戻った。

ファロン・ヤングやウエブ・ピアスなど他のオープリー・スターと共に、グループが出演する際ジューンはその痩せた体形をネタにして盛り上げた。
キャリアのハイライト

歌や作詞作曲の他、ジューンは作家、ダンサー、女優、コメディアン、慈善家、人道家としても知られていた[6]。1955年、映画監督エリア・カザンはオープリーに出演するジューンを見て、本格的に演技を勉強するようすすめた。ジューンはニューヨークネイバーフッド・プレイハウスリー・ストラスバーグ、スタンフォード・マイズナーに師事した。1998年、ロバート・デュヴァルの映画『The Apostle 』のミセス・デューイー役、1993年から1997年の『ドクタークイン 大西部の女医物語』でキッド・コール(ジョニー・キャッシュ)の妻シスター・ルース役、1957年の『ガンスモーク』のクラライズ役などを演じた。また『The Last Days of Frank and Jesse James 』ではフランク・ジェイムズとジェシー・ジェイムズの母ママ・ジェイムズ役を演じた。

歌手としてジューンは一家との活動だけでなく、ソロやのちの夫とのデュエットなどでも活動した。ソロ歌手としては1950年代の『Jukebox Blues 』などのアップビート・カントリーで成功し、ブレス回数少なめで歌うフランク・レッサー作曲のコメディ曲『No Swallerin' Place 』などもヒットした。1960年代も『The Heel 』など多くの曲をレコーディングした。

ジョニー・キャッシュと結婚するまで何年も共に活動していた。1963年、ジューンはジョニーへの想いを描いた『Ring of Fire 』を共に作曲したが、妹のアニタがこの曲を最初にレコーディングした。2007年、ジョニーの最初の妻ヴィヴィアン著の『I walked the Line 』によると、この曲を作曲したのはジョニーであり、当時金銭的に困窮していたジューンのために共同作曲者と名を連ねただけだとした。またヴィヴィアンはこの曲の題名は女性の体の一部を表していると語った。

1964年、キャッシュのアルバム『Orange Blossom Special 』収録曲でシングルカットされたボブ・ディラン作曲の『悲しきベイブ』でデュエットしたのが2人にとって最初の記録的なレコーディングとなった。1967年、デュエット『Jackson 』でより成功し、コラボレーション・アルバム『Carryin' On with Johnny Cash and June Carter 』がリリースされた。これまでリリースされたコラボレーション作品は全てジョニーとの結婚前のものであり、結婚前は「ジューン・カーター」、結婚後は「ジューン・カーター・キャッシュ」の名義で活動していた。結婚後もレコーディングおよびステージ上で共に活動し続け、ジョニーの数々のアルバムでデュエットを行ない、1969年から1971年、テレビ番組『ジョニー・キャッシュ・ショー』にレギュラー出演した他、毎年恒例のキャッシュのクリスマス特別番組にも出演してした。『Carryin' On 』の後の1973年、再度コラボレーション・アルバム『Johnny Cash and His Woman 』をリリースし、1974年、娘たちをメインのヴォーカリストに迎えて『The Junkie and the Juicehead Minus Me 』をリリースした。2000年、小さなレコード会社によるゴスペル・アルバム『Return to the Promised Land 』を共にリリースした。

ジューンは多くの曲をレコーディングし、ジョニーと共に複数のアルバムをリリースしたが、ソロ・アルバムは1975年の『Appalachian Pride 』、1999年の『Press On 』、2003年の没後、息子ジョン・カーター・キャッシュのプロデュースによる『Wildwood Flower 』の3枚のみであった。ジョニーが演奏していないソロ・アルバムは『Appalachian Pride 』のみで、『Press On 』にはジューンによるオリジナル版『Ring of Fire 』が収録されている。

2003年、歌なし、台詞なしではあったが、亡くなる数か月前に撮影されたジョニーのシングル『Hurt 』のミュージック・ビデオに出演した。2003年4月7日、亡くなる1ヶ月前に病気をおしてCMTのフレームワーシー賞授賞式で夫と共に功労賞を受賞したのが最後に公の場に登場したものの1つとなった。

1999年、『Press On 』でグラミー賞を受賞した。最後のアルバム『Wildwood Flower 』はグラミー賞2部門を受賞した。このアルバムには2002年9月18日から20日にバージニア州ヒルトンズにあるカーター家の邸宅で行われたレコーディング・セッションの様子が収められた特典映像が収録された。収録曲は『Big Yellow Peaches 』、『Sinking in the Lonesome Sea 』、『Temptation 』、タイトル曲の『Wildwood Flower 』などであった。夫ジョニーの曲の多くにバック・ヴォーカルとして参加していたため、実質的には2014年のジョニーのアルバム『Out Among the Stars 』が最新である。このアルバムにはジューンとジョニーのデュエット2曲を含む1980年代初頭の未発表曲が収録されている。

1979年、自伝を出版し、約10年後回顧録『From the Heart 』を執筆した[7]
私生活

3回結婚し、それぞれに1人ずつ子供がいる。子供3人共カントリー界で活躍。

1952年7月9日、ホンキートンク歌手カール・スミスと結婚し、1956年に離婚した。2人は共に『Time's A-Wastin 』を作曲した。娘レベッカ・カーリン・スミスをもうけ、カーリン・カーターの名でカントリー・ミュージシャンとして活動している[8]

1957年11月11日、元フットボール選手、警察官、レーサーのエドウィン・ニックスと結婚した。1958年7月13日、娘ロザンナ・リーをもうけ、ロジー・ニックス・アダムスの名でカントリー/ロック歌手として活動していた。2003年10月24日、ロジー45歳の時、一酸化炭素中毒により亡くなった。ロジーとミュージシャンのD・キャンベルがツアー・バスに作り替えられたスクール・バスでコンサート・ツアーに出ていた。暖房としていくつかのプロパン・ヒーターが使用されており、検死によると血中一酸化炭素濃度が79%にまで達していた[8]

何年間もジューンおよびカーター・ファミリーはジョニー・キャッシュと共に演奏していた。1968年、カナダオンタリオ州ロンドンにあるロンドン・アイス・ハウスでライヴ中、ジョニーはジューンにプロポーズした。3月1日、ケンタッキー州フランクリンで結婚し[7]、2003年5月にジューンが亡くなるまで婚姻は続き、その4ヶ月後にジョニーも亡くなった。2人の息子ジョン・カーター・キャッシュはミュージシャン、ソングライター、プロデューサーとして活動している。

1970年、ジューンの縁戚でのちのアメリカ合衆国大統領となるジミー・カーターはジューンおよびジョニーと改めて親しくなり、生涯を通して友情が続いた。1977年6月のスピーチでジミーはジューンが父方の縁戚であると語った[9]

長年ジューンはSOS子供の村の支援者であった。1974年、ジューンおよびジョニーはジャマイカのバレット・タウンの別荘近くにこの村の設立資金を寄付し、夫妻はたびたび訪問して村の子供たちのためにギター演奏や歌唱を行なった[10]

2003年5月15日、心臓弁置換手術後の合併症によりテネシー州ナッシュビルで、35年連れ添った夫ジョニー・キャッシュを含む家族に見守られながら73歳で亡くなった[7][11]。ジューンの葬式で継子のロザンヌ・キャッシュは「企業に妻があるならば、ジューンは最高経営責任者であるだろう。彼女にとって重要な役割だった」と語った[12]。ジューンが亡くなった4ヶ月後、ジョニーが亡くなり、さらにその1ヶ月後に娘ロジー・ニックス・アダムスが亡くなった。ジョニー、ジューン、ロジーはテネシー州ヘンダーソンヴィルの邸宅近くのヘンダーソンビル・メモリー・ガーデンズに埋葬された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:40 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef